うーん、オースターの小説にしては少し物足りなかったかも。俺がオースターの作品でおもしろいとおもうのは、(『偶然の音楽』とか、『ムーン・パレス』みたいな)“肉体/精神的にぎりぎりの極限状態におかれた主人公の思考がスパークして、なんだかよくわからない境地に至る”みたいなところなんだけど、描かれるシチュエーションのわりには、そういう切迫感があまり感じられなかったようにおもって。オースター独特の語り口は十分にたのしめるんだけど、ちょっとおとなしめな佳作、という印象を受けた。
この物語の主人公は、犬のミスター・ボーンズ。彼の視点から、その飼い主たるホームレス詩人のウィリーとの生活と別れ、そしてその先の彼の生きざまが描かれていく。作品の半分くらいを占めているのは、ウィリーとボーンズとのおもいで話や別れのシーンで、一人と一匹の絆が作品の大きな軸になっている。ただ、
生まれたての仔犬のころからずっと一緒にいたから、いまとなってはもう、主人のいない世界なんて想像もつかなかった。考えること一つひとつ、記憶の一つひとつ、大地と空気のすべての粒子にウィリーの存在が浸透していた。習慣とは根強いものであり、老いぼれ犬に新しい芸を教えるのは云々という格言にもそれなりの真実があるだろう。だが、迫りくる事態をミスター・ボーンズが恐れたのは、単に愛ゆえ、忠誠心ゆえだけではなかった。それは純粋に存在論的な恐怖だった。世界からウィリーを引き算してしまったら、おそらくは世界自体が存在をやめてしまうのだ。(p.4)
なんて書かれてはいるのだけど、そういう存在論的な恐怖の感覚や、ウィリーと別れた後にボーンズがどのように生きていくのか、って部分の描写は少しあっさりし過ぎているようにおもった。もっと深いところまで掘り下げて、潜っていけそうな感じがするのになー。
まあ、そんな風にかんがえてしまうのは、ミスター・ボーンズが人間のことばを解するから、そしてほとんど人間に近いかんがえかたをしているように感じられたからかもしれない。
「僕の名前はヘンリー」と男の子は言った。「ヘンリー・チャウ。君の名前は?」
ふん、よく言うよ、とミスター・ボーンズは思った。そんな質問、どう答えろっていうんだ?
とはいえ、この会話の成果が今後を大きく左右すると思ったから、ここは精一杯やってみることにした。小枝と枯葉に埋もれたまま、頭をもたげ、すばやく三回鳴き声を発した。ワン・ワン・ワーン。完璧な短短長格であり、名前のそれぞれの音節に適切な強勢、バランス、持続が与えられている。つかの間何秒か、ミス/ター/ボーンズという言葉がその朗々たるエッセンスに煮つめられ、音楽の一節にも等しい純粋さに還元されたと思えた。(p.112)
ボーンズはたしかに犬であるけれど、なんていうか、中途半端に人間っぽいのだ。オースターの小説の主人公って、深く内省するような(暗い)タイプがわりに多いとおもうんだけど、それをただ薄口にしただけの人物(というか犬)、みたいな感じがしてしまって。その辺りも、この小説がちょっと物足りなくおもえた原因のひとつになっているような気がする。
ただ、物語最後のシーンはすごくいい。いかにもポール・オースターらしい、ぎゅっと胸を締めつけられるようなオープン・エンディングになっている。