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『社会を変えるには』/小熊英二

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

一般市民が政治に参加する方法って、どんなものがある?…そう問われたとき、どんなことがおもい浮かぶだろうか。投票すること?議員や政党を選ぶこと?法律を通すこと?…すぐに出てくるのはこんなところかもしれないけれど、これらはあくまで、せいぜいここ100年程度のあいだに支配的だった、代議制民主主義という制度内における方法に過ぎない。本書において小熊は、歴史的、社会構造的、思想的な観点から、日本および世界各地の社会運動を考察することによって、一般にかんがえられがちな発想の限定性、局所性を明らかにし、その発想を転換・変化させていくためには何をすればよいのか、についてかんがえるためのヒントを浮かび上がらせていく。「あとがき」で小熊自身が書いている通り、いま、この日本の「社会を変える」ために役立てられる、基礎教養が収められた一冊だといえるだろう。非常にやさしい言葉で書かれているので、高校生でもたのしく読み進めることができそうだ。

そもそも、「社会を変える」、とはどういうことなのか?いまの日本にとって、どういうことが「社会を変える」ことになるのか?それは、議会で多数を取ることであるかもしれないし、日経平均株価に変動をもたらすことであるかもしれない。職場で昇進して発言権を上げることだってそうかもしれないし、あるいは、被災地にボランティアに行くこと、ネットで意見を集めてうねりを作り出すことだってそうかもしれない。…とかんがえてみると、ある人にとっての「社会」というのは、その人がどういった社会的集団に属しているのかによって変わってくるのだ、ということに気づかされることになる。まあ、ごくあたりまえのことだ。少なくともこの現代において、社会を構成するところの「われわれ」というやつは、もはやただひとつの集団ではあり得ない。ばらばらになった「われわれ」たちが無数に乱立している様を眺めてみれば、そこに明確な中心点などというものがあるとは到底おもえないだろう。

いまの社会は、どこかに中央制御室があって、そこを占拠すれば社会全体を操作できる、という構造にはなっていません。具体的にこの法律が変わればこうなる、ということはあるでしょうが、「自由」と再帰性の増大から発生してくる問題を解決はできません。すぐに効果が出ないようでも、議会でも地域でも、行政からでも運動からでも、あらゆるところで発送や行動や関係を変えていき、それが連動していって社会を変えるしかありません。(p.426,427)

人々が「自由」になり、各々ばらばらの生き方を選択していくなかで、旧来の「われわれ」に基づいた政治は崩壊しつつある。もはや、社会をコントロールするための中心なるものは存在しないのだから、あらゆる場所から変化を発生させ、それらを徐々に結びつけていく他ない、というわけだ。であれば、社会を変えるためには、新しい「われわれ」を結びつけ、連動させていくための共通見解、共通の感覚といったものが必要になってくるだろう。そんなものが、果たして存在するのだろうか?小熊はこう述べている。

王が社会を代表している、という観念をみんなが共有している社会では、王を替えるか倒すかすれば「社会を変える」ことになりました。議会の政党政治が社会を代表している、という観念が共有されていた時代は、議会で多数派をとることが社会を変えることでした。現代で、それにあたるものはないと言っていいかもしれません。 しかし、現代の誰しもが共有している問題意識があります。それは、「誰もが『自由』になってきた」「誰も自分の言うことを聞いてくれなくなってきた」「自分はないがしろにされている」という感覚です。これは首相であろうと、高級官僚であろうと、非正規雇用労働者であろうと、おそらく共有されています。それを変えれば、誰にとっても「社会を変える」ことになる、とは言えないでしょうか。(p.434)

たしかに、これらの問題意識は、いまや世界各地で共有され、大きな勢力を形成する基盤となりつつあるようにおもえる。わかりやすいのは、各地で発生している大規模なデモ行動だろう。チュニジアやエジプト、リビアの民主化デモをはじめ、ロシアでは反プーチン政権の、チリでは大学教育無償化の、米ウォール街では反格差のデモが大きな勢力となっていたし、スペインやギリシャの財政緊縮策に対するデモも注目を集めていた。この日本でも3・11以来、反原発デモがさかんに行われているし、米軍のオスプレイ配備への反対デモも話題になったりしていた。抗議内容や運動の形態は地域によってさまざまだけれど、もはや、外部から政治に改革を要求するだけでは何も変わらない、ないがしろにされているならば、自分の言うことが尊重されていないと感じるのならば、市民が自らの声を発して政治参加しなければならない、という感覚が世界規模で噴出しつつある…というくらいのことは言ってみてもいいのかもしれない。

もちろん、それがすぐに、「社会を変えること」に結びつくのかといえば、そういうわけにもいかないだろう。ただ、これらの動きをきっかけとして、多くの人が問題意識をもとに結びついていく感覚を実感することができれば、それは確実に、ゆるやかな「われわれ」の形成に繋がっていくに違いない。意見を自由に口にすること、異なる意見の者同士が対話できる場をつくること、それによって合意を作り出すこと…そういったプロセスをひとつひとつ積み上げていくことで、誰もが社会問題に取り組めるという意識が広まっていけば、対話型・参加型の民主主義の時代、すなわち、「われわれ」による民主主義の時代へと社会は変化していけるのではないか。そんなふうに、小熊はかんがえているようだ。