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『ひとさらい』/ジュール・シュペルヴィエル

ひとさらい (光文社古典新訳文庫)

ひとさらい (光文社古典新訳文庫)

シュペルヴィエルの長編。以前に読んだ『海に住む少女』が完璧に素晴らしい作品だったので、それと比べてしまうとやはりどうしても落ちる、という印象はあった。でも、これはこれでなかなかおもしろい小説だ。

物語の主人公は、ビグア大佐という男。父性溢れる人物で、あちこちから身寄りのない/不幸な子供をさらってきては自分の家に住まわせ、自分の子供として大切に育てようとする…という変人である。読者がこの男のことを、変わった人だなー、そこまで悪人って感じでもないみたいだけど…などとおもうのと同じように、さらわれてきた子供たちの目にも、大佐はどこか掴みどころのない、出来合いのものさしでは測りがたいような人物として映っている。風変わりで、優しくて、人の道からはちょっと外れていて、そしてとても寂しそうな男。

さて、そんな風に、法の網の目をかいくぐりながらオリジナルな価値観を貫いていた大佐だけれど、マルセルという少女を引き取ってからというもの、自分のありようにまるで自信が持てなくなってしまう。まあ早い話、彼女に恋してしまうわけだ。ティーンの「娘」に恋してしまった大佐の心の内では、父性と愛欲、怯えと怒り、プライドと欲望とがごちゃごちゃに混ざり合い、どこにも行き場を見つけることができないまま、ものすごい早さで肥大化していくことになる。(そして、マルセルの方はというと、そんな大佐のようすを興味深げに見つめている。)

自分でも意識していないだろう大佐のちょっとした態度から、マルセルは大佐が自分に関心があることを感じ取っていた。なにしろ、大佐は気がつくと、彼女の手や、靴ひもの結び目や、帽子のてっぺんをじっと見つめているのだ。マルセルのほうはといえば、しばらく前から、大佐のまぶたにキスしたいと思っていた。それだけは確かだった。だって、あのまぶたの裏には、今までに見たなかで、いちばん真っ黒な瞳、誰よりも多くのものを抱え込んだ瞳が隠れているのだ。 マルセルにとって大佐は、母の家にはなかったものすべてだった。贅沢な暮らし、心遣い、そして異国情緒。マルセルは大佐をじっと見つめていた。まるで、何十キロにわたって葉陰の続く深い森のなかに潜んでいるオランウータンのように、大佐はいつも孤独のただなかにいるのだ。(p.104,105)

そういう意味では、本作も「女のいない男たち」の物語だということができるだろう。大佐には妻がいるけれど(そして彼は彼女のことをそれなりに大切におもってはいるようなのだけれど)、やはり彼は、自らが本当に求めるもの、心の奥底から欲望するものを得ることのできない、「女のいない男たち」のひとりなのだ。だから、そんな彼にとってのこの世界は、もはや自らの力では何の働きかけをすることもできない、痛みに満ちた場所ということになる。

(ビグア大佐が「ひとさらい」をはじめた理由というのは、作中ではぼんやりと示唆されるに留まっているのだけれど、おそらく、「そうしないことには、この世界のなかに自分をうまく位置づけることができなかったから」だということは言えるだろう。既にさまざまなものを失い、あるいは自ら捨て去ってきた後で、彼が自分にふさわしい立ち位置、役割としてようやく設定することにしたのが、「家庭の父親」というロールだったのだけれど、そのポジションを自らの欲望によって失うことになってしまったわけで、そうなると、もはや彼には依って立つところがなくなってしまうのだ。)

物語の最後、ビグア大佐は生への意思を失い、海へと身を投げることになる。シュペルヴィエルは、そんな彼の姿を、「いったい何をやっているんでしょうねえ、この人は?」とでも言いたげないじわるな口ぶりで描き出してみせるけれど、まさにそんな大佐の滑稽さやみじめさによって、作品全体の詩情は確かなものになっている。