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『嵐が丘』/エミリー・ブロンテ(その2)

嵐が丘〈下〉 (岩波文庫)

嵐が丘〈下〉 (岩波文庫)

前回のエントリでは、本作の登場人物は全員が全員、超エゴイストだという話を書いたけれど、『嵐が丘』を『嵐が丘』たらしめているのはやはり、ヒースクリフという人物の造形だろう。彼の復讐にかける異様なほどの執着心こそが、本作全体の激烈さの震源地なのだ。悪魔的、神話的と言ってもまったく言い過ぎではないそのヒールっぷりこそが、本作を、その亜流とはまったくかけ離れた、圧倒的にオリジナルなものにしている。

ヒースクリフは、己の魂とも言うべきキャサリンを失った後、その運命への復讐のためだけに生きるようになる。復讐心、反抗心、憎しみといった負の感情のみが彼の拠り所となり、生きがい、生への原動力となるのだ。だから、物語の最後、そういった負のエナジーに基づく攻撃性を失ってしまった彼は、生きる理由を失い、その命の灯火を消すことになる。

ヒースクリフを駆り立てていた負のエナジーというのは、「キャサリンへの愛情(と表裏一体の憎悪)」あるいは「ヒンドリーやエドガーへの恨み」といったものからというより、彼が「キャサリンを失ったという事実を受け入れることができない」でいる、ということから生じたものだ。だから、彼の内には常に、決して手に入らないものとしてのキャサリンへの想いがあるのと共に、後悔の念や罪悪感、そして自己正当化の欲求との葛藤といったものがある。

まあ、たとえば、ヒースクリフとって権威と感じられるような他者による承認や赦しといったものがあれば、彼も救われることがあったかもしれない。けれど、あいにく、彼の心のなかには自分自身とキャサリン以外の他者が入り込むためのスペースは用意されておらず、だから、彼は自分を赦したい(赦して欲しい)と願わないではいられないが、どうしても赦すことができない、という苦悩に苛まれ続けることになったわけだ。

よし、おれの祈りはただ一つだ。舌がこわばるまで繰り返すぞ。キャサリン・アーンショーよ、おれがこうして生きている限り、安らかに眠ることのないように!おれが殺した、ときみは言った。それなら亡霊になって、おれのところに出てくるがいい。殺された者は殺したやつに取りつくものだ。地上をさまよう亡霊がいるのは確かだよ。いつもそばにいてくれ。どんな姿形でもいい。おれの気を狂わせてくれ。ただ、おれをこのどん底に――きみが見えないところに置きざりにだけはしないでほしい。ああ、神よ!言葉では言えない!おれの命なしで生きるなんてできない!おれの魂なしで生きるなんて無理だ(下巻 p.34)

キャサリンに結びつかないようなもの、キャサリンを思い出させないものなんか、おれには一つもないんだからな。この床を見ても、敷石にはキャサリンの顔が浮かぶ!一つ一つの雲、一本一本の木に。夜は大気いっぱいに、昼はあらゆるものにちらついて、あいつの面影はおれを取り巻いている!ごくありふれた女や男の顔、いや、おれの顔まであいつの顔に似てきて、おれを嘲るんだ。この世はすべて、かつてキャサリンが生きていたこと、おれがあいつを失ったことを記したメモの、膨大な集積だ!(下巻 p.338)

そういうわけで、ヒースクリフは、最後まで「キャサリンを失った自分自身」という存在を受け入れることのできなかった人物、自身の運命への反抗者、自己と融和することの叶わなかった人物であると言うことができるだろう。彼の内なる摩擦熱こそが、彼自身を焼き尽くしたのであって、だから彼の復讐者としての姿は、どこか浮世離れしたもの、外からはその内在論理がまったく読み取れず、ある種の崇高さをさえ感じさせるほどに謎めいたものになっているのかもしれない…なんていう風におもえたりもする。