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『職業としての学問』/マックス・ヴェーバー

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

マックス・ヴェーバーが1919年に行った講演を文章化した一冊。80ページ程度の薄い本だけれど、内容は濃密で、なかなかおもしろく読めた。

かつて、学問というものは、「真の実在」や「真の芸術」、「自然の真相」、「真の神」、あるいは「真の幸福」への道であるとかんがえらえていたものだった。だが、現代の合理主義的思考の前では、これら「真のXX」は単なる幻影でしかあり得ず、それを素朴に信奉し続けることは困難である。では、そんな現代において、学問というものにはどのような意義があり得るのだろうか??

この問いに対し、ヴェーバーはトルストイの言葉を引いて、このように述べる。

「それは無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである」(p.42,43)

そういう観点からすればまったく無意味な存在であるけれども、その実、学問というのは「自身の価値」を前提としているものだ、とヴェーバーは続ける。学問とは端的に善なるものである、学問とその発展には意味がある、というその一点だけを前提とすることで、学問は自身の意義を保っているのだ。

要は、学問というものは学問それ自体のために存在し、成長していくものであって、「学問それ自体の価値」なるものを、学問の外部から規定することはできない、という話だ。だからもちろん、どのような学問も、その前提を拒否する者に対し、自己の基本的価値を証拠立てることはできない、ということになる。(たとえば医学は、「人間の生命を保持すること」を前提としているが、「そもそも生命とは保持するに値するものか?」という疑問に答えることはできないだろうし、あらゆる神学は「宗教的救いの主知的合理化」に他ならないだろう…などとヴェーバーは説明している。)

そういうわけだから、学問に携わる者は、その「前提」以外を所与のものとしてはならない、とヴェーバーは主張する。学者とは、「事実をして語らしめる」役割を担っているのであって、そこに別の価値判断を持ち込んではならない、というわけだ。だから、教師は学生に対して「指導」として自らの価値判断を語ってはならないし、学生も教師に「事実をして語らしめる」以上のことを要求したり期待したりしてはならない、ということになる。学者は決して、「指導者」や「実社会における実践者」たり得ないのだ。

大学で教鞭をとるものの義務はなにかということは、学問的にはなんぴとにも明示しえない。かれにもとめうるものはただ知的廉直ということだけである。すなわち、一方では事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えるということ、――このふたつのことが全然異質的な事柄であるということをよくわきまえているのが、それである。もしこれにたいしてさらに人が、なにゆえ教室ではこのどちらもが同様に取り扱われてはならないのか、とたずねたならば、これにたいしてはこう答えられるべきである、予言者や扇動家は教室の演壇に立つべき人ではないからである、と。(p.49,50)

もとより、ここに述べたような考えは、人生が、その真相において理解されているかぎり、かの神々のあいだの永遠の争いからなっているという根本の事実にもとづいている。比喩的でなくいえば、われわれの生活の究極の拠りどころとなりうるべき立場は、こんにちすべてたがいに調停しがたくまた解決しがたくあい争っているということ、したがってわれわれは、当然これらの立場のいずれかを選定すべく余儀なくされているということ、がそれである。このような事情のもとにあって学問がだれかの「天職」となる価値があるかということ、また学問それ自体がなにかある客観的に価値ある「職分」をもつかどうかということ、――これはまたもやひとつの価値判断であって、この点については教室ではなにごとも発言しえないのである。(p.64,65)

そんな学問が個々人の実際的な生活に対して価値を持っているとするならば、「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識」や、「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」、そして、それらによって導かれるある「明確さ」といったものを提供できるということくらいだろう、とヴェーバーは言う。何にどのような価値があり、何をなすべきなのかといったこと――それは「世界観」であったり、「人生の意味」であったり、特定の事態に対する行動であったりするだろう――というのは、どこまでも各個人の責任において判断されるべきもの、学問の範疇には含まれず、教室のなかに入れるべきではないものである、というわけだ。