- 作者: N.ゴーゴリ,横田瑞穂
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/01/17
- メディア: 文庫
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画家のピスカリョーフと中尉のピロゴーフが連れ立ってネフスキイ大通りを歩いていると、ふたりの美しい女が目に入る。ピスカリョーフはブルネットの女が、ピロゴーフはブロンドの女が気に入り、それぞれに後をつけていく。ブルネットの女はじつは娼婦だが、ピスカリョーフは彼女の内に理想の女性を見たようにおもい、彼女を「淪落の淵から救い」出そうとひとり奮起するものの、叶わず、悪夢的な妄想を繰り広げた挙句、自殺してしまう。ブロンドの女はドイツ人の人妻で、ピロゴーフもやはり彼女を手に入れることはできないが、彼はとくにそのことでおもいわずらうこともなく、まあいいか、と、ピローグをふたつ食べるうちに忘れてしまう…。
本作は、ざっくり言えば、「ネフスキイ大通りへの大仰な賛歌」→「ピスカリョーフの悲劇」→「ピロゴーフの喜劇」→「ネフスキイ大通りについてのまじめぶった警告」という4つのパートで構成されており、ゴーゴリの「語り」も、各パート毎にそのテイストを異にしている。ピスカリョーフが体現するのは精神性や内省、純粋さに由来する脆さであるため、そのパートでは彼の内面に寄り添うような語りによって幻想性が強調されている。また、ピロゴーフによって表されるのは肉体性、現実主義、即物的な楽観性といったものであるため、彼のパートにおいては内面的な要素はほとんど排除される。プロットも、基本的にシンプルなリアリズムに則って進行していく。
そして、「賛歌」パートははこんな具合に饒舌で大仰だし、
どこへ行ったって、ネフスキイ大通りでおたがいに出会ったときほど上品に、うち解けて挨拶しているところはない。ここでは諸君は、唯一無二の微笑、芸術の絶頂とも言うべき微小に出会われることだろう、つまり、ときには満足のあまり蕩けてしまいそうな、そんな微笑、ときには、ふいに自分を草よりも低いものと考えて頭をさげ、またときには、自分を海軍省の尖塔よりも高く感じて頭を高くあげる、そんな微小に出会われることだろう。ここで諸君はなみなみならぬ上品さと自尊心とをいだいて音楽会のことやら、お天気のことを語りあっている人々をも見うけるだろう。そこでは諸君は無数の玄妙不可思議な性格や現象に出会うだろう。創造主よ!ネフスキイ大通りでは、なんと変わった性格の人々に出会うことであろう!(p.13,14)
「警告」パートはこんな風に皮肉っぽい。
しかし、なによりも不思議なのは、ネフスキイ大通りに起こる出来事である。おお、このネフスキイ大通りを信じてはいけない!わたしはそこを通るときには、いつも自分のマントにしっかりとくるまって、行きあうものにまったく目をくれないように努めている。すべてが欺瞞であり、すべてが幻であり、すべてが、見かけとはちがうのだ!諸君はりっぱな仕立てのフロックコートを着て、ぶらついている紳士を、かなり裕福だとお思いだろうか?けっしてそんなことはない、彼にとってはそのフロックコートがその全資産なのである。(p.70)
そういうわけで、ピスカリョーフ的なるものとピロゴーフ的なるものは、ネフスキイ大通りの表の顔と裏の顔、これらはひとつところに混在しているのです!という感じに物語はまとめられるわけだけど、うーん、どうも俺にはこの作品のおもしろさがよくわからなかった。70ページ足らずの短編のなかで色調が次々に変化していくところはそれなりに興味深いものの、個人的に美点として挙げられそうなのはそのくらい。おそらく、書かれている内容がことごとく「風刺的でユーモラス」な紋切り型に見えてしまう、というのが原因なのだとおもう。描写にはバルザック的な細かさ、執拗さがあるのに、その細かさにしても「別にどうでもいい」と感じてしまうというか…。(もしかしたら、単にゴーゴリを読むのに飽きてきてしまっているだけなのかもだけど…。)