人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)
- 作者: 松尾豊
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
- 発売日: 2015/03/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (39件) を見る
「人工知能」という用語は一般に広く用いられているけれど、現時点では、人間の知能の原理を解明し、それを工学的に実現する、というような意味での人工知能は、まだどこにも存在していない。昨今の製品やサービスでよく言われている「人工知能」というのは、あくまでも人間の知的活動のある一面を真似したという技術に過ぎないのだ。
とはいえ、2010年代以降のディープラーニングの研究や、シンギュラリティが間近であるという言説、人工知能に仕事が取られるだの取られないだのといった風評など、ここ数年はこの分野の話題には事欠かない状況が続いている。本書は、そんな人工知能研究の歴史と今後の展望とを簡潔にまとめたもの。2015年の本なのでもうちょっと古いけれど、前提知識ゼロでも読み進められるので、入門書としてちょうどよい一冊だ。
松尾は、いままでの人工知能研究について、4つのレベルに分けて説明してみせる。
レベル1:「単純な制御プログラム」
エアコン、掃除機、電動シェーバーなど。制御工学あるいはシステム工学分野のもの。レベル2:「古典的な人工知能」
将棋のプログラム、お掃除ロボット、質問対応ソフト、診断プログラムなど。多彩なふるまいのパターンに対応した人工知能。知識ベースが入っていることも多い。レベル3:「機械学習ができる人工知能」
検索エンジンに内蔵されたり、ビッグデータを基に自動的な判断を行う人工知能。機械学習――サンプルとなるデータ群を元に、ルールと知識を自分で学習する――のアルゴリズムが使われる。ただし、機械学習時に何を判断基準(特徴量)とするか、その重みづけをどうするか、は人間が決定する必要がある。レベル4:「ディープラーニングを採り入れた人工知能」
大量のデータからその特徴量を自動で抽出し、学習する人工知能。人間であれば無意識のうちに脳内で処理している、特徴や概念といったものを獲得していくことができる。
レベル3,4で出てくる「特徴量」というのは、機械学習時の入力に用いる変数のことで、その値が対象の特徴を定量的に表すものだ。機械学習の精度は、特徴量として何を選択するかによって大きく左右されるわけで、精度向上のためには、いい特徴量を設定することが必須になってくるのだが、レベル3の人工知能においては、それは人間が試行錯誤して作っていく他なかった、ということだ。
そういうわけで、いかに特徴量を獲得するか、というのが長いあいだ人工知能研究における大きな課題であり続けていたわけだけれど、それを一部解きつつあるのが、レベル4の人工知能、ディープラーニングなのだという。松尾によれば、これは、「人工知能研究における50年来のブレークスルー」であるらしい。
ディープラーニングは、データをもとに、コンピュータが自ら特徴量を作り出す。人間が特徴量を設計するのではなく、コンピュータが自ら高次の特徴量を獲得し、それをもとに画像を分類できるようになる。ディープラーニングによって、これまで人間が介在しなければならなかった領域に、ついに人工知能が一歩踏み込んだのだ。(p.147)
ディープラーニングでは、まず簡単な特徴量をコンピュータ自らが学習し、それをベースにさらに高次の特徴量を見つけ出していく。こうして獲得された特徴量を用いることで、概念を獲得し、またその概念を使って知識を獲得していく。だから、ディープラーニングを利用すれば、数値化できないデータ、構造化できないデータについても処理を行い、結論を出すことができるというわけだ。もっとも、そのモデルや論理を人間が追跡することはできない――ニューラルネットワークを構成するパラメータの数があまりにも多すぎるため、なぜそういう判断をしたのか、どんな風に学習した結果そうなったのか、はわからないのだ――ので、その処理過程はあくまでもブラックボックスということになってしまうのだが。
そんなディープラーニング、特徴表現学習の研究が進んでいくことで、産業構造にも長期的な影響が与えられるだろうし、また、高い認識予測能力、行動能力、概念獲得能力、言語能力を持つ知能が実現する可能性もあるだろう、と松尾は希望を持って語っている。が、それと同時に、ディープラーニング技術の可能性はまだその「上限値」が明らかになっていない状態であるので、過剰な期待を抱くのはやめることだ、ということも繰り返し述べている。まあ、現時点のディープラーニングにできることは、知能が持つ能力の全体からすれば、まだまだ限られたものでしかないといことだ。「人工知能が人間を超える」、いわゆるシンギュラリティについても、現実的ではないだろうというのが松尾の主張である。