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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

日記を書くこと(その5)

ここのところ、ブログの更新をすっかりさぼってしまっていた。理由は大きくふたつあって、ひとつは、小説や映画や音楽にいまいち感動できなくなってしまっていたから、もうひとつは、そういう微妙な感想をここに書き残すことに抵抗を覚えていたからだ。情けないことだが、自分の感受性が鈍ってきていることをひしひしと感じていた俺は、そいつと直面すること、そいつと相対することに恐れを感じ、すっかりびびってしまっていたというわけだ。まったく、とんだたにし野郎だと言わなくてはならない。

でも、きょうこんなことを改めて書いているのは、最近かんがえが変わったからだ。つまり、どんなにしょぼい感想であっても、どんなに手垢にまみれた言葉であっても、アウトプットしないよりはするほうがずっとましなんだ、ってようやく本当におもえるようになったのだ。いや、もちろん、これはあたりまえのことだ。言葉を紡ごうとする努力なしに思考が発展することなどあり得ないし、感受性というのは、使わなければ使わないぶんだけ、鈍り、くすんでいってしまう、しごく繊細で儚いやつなのだ。ただ、そんな自明すぎるくらいにに自明なことを、俺はようやく実感できたのだった。

そんなプチ"転回"があったきっかけについてはまた別の機会に書くとして、きょうはもうずいぶん前に書いた自分のメモ(Evernoteから発掘した)を以下に掲載しておこうとおもう。メモというか、ほとんどエントリ用の体裁にまで書き上げていたのに、結局アップするのをやめてしまっていたものだ。3年も前に書いた、こんな力まかせの文章が、ふしぎといまの気分にはぴったりくる。

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2009年9月14日

きょうでこの日記を書き始めてから3年目に入る。2年のあいだに、俺は大学の3年と4年をなんとか終わらせて会社に入り、ドイツ語の辞書をねめつける代わりにPCの画面とにらめっこするようになった。引っ越しもしたし、毎日のように会っていた友人と何か月も連絡を取らなくなったり、付き合っていた女の子と別れたり、煙草の本数が増えたり、いつの間にかテレビをぜんぜん見なくなったりもした。バイオリンをやめてベースをはじめたり、夜型の生活をやめて朝早く起きるようにもなった。…って、おもわずここ数カ月の変化のことばかり書いてしまったけど、好きな音楽や本や映画や、もののかんがえかたなんかは、もっと長い時間のなかで少しずつ変わってきているんじゃないかな、とおもう。

そんないろいろを日記ってかたちで残しておくのは、やっぱりおもしろいな、なんてひさびさに感じている。日記に何かを書き残すっていうのは、何を書くか、そして何を書かないかを選別することだ、という話を以前に書いたけれど、それに加えて、日記を書くことっていうのは、生活を少しだけ恣意的に変化させようとすることでもあるかもしれない、とかおもったりもしているのだ。

リチャード・パワーズは『舞踏会へ向かう三人の農夫』において、こんな風に書いている。

一つひとつの行為を通して、我々は自分の伝記を書く。私が下す決断一つひとつが、それ自体のために下されるだけでなく、私のような人間がこういう場合どのような道を選びそうかを、私自身や他人に示すために下されるのでもあるのだ。過去の自分のすべての決断や経験をふり返ってみるとき、私はそれらをつねに、何らかの伝記的全体にまとめ上げようとしている。自分自身に向かって、ひとつの主題、ひとつの連続性を捏造してみせようとしている。そうやって私が捏造する連続性が、今度は私の新しい決断に影響を与え、それに基づいて為された新しい行為一つひとつがかつての連続性を構成し直す。自分を創造することと、自分を説明することとは、並行して、分かちがたく進んでいく。個人の気質とは、自分自身に注釈を加える営みそのものだ。(p.238)

ここで、パワーズは比喩として「伝記を書く」と言っているのだけれど、じっさいに伝記/日記を書くことだって、やっぱり絶えず捏造され続ける「自分自身の連続性」なるものを組み直すことでもある。自分の生活や思考について書くことは、自分の生活や思考に注釈を加え、それらをそのようなものとして作り上げようとすることと不可分になっているわけだ。

それは、べつに日記の内容を捏造するとか、自分に嘘をつくとかっていう意味じゃない。日記を書いている人はよく感じることだとおもうのだけど、本当のこと、自分が感じたそのままを書く、っていうのはなかなかむずかしいもので、それはたぶん言葉というものが基本的に近似値でしかないからなんだろうとおもう。

近似値である言葉を正確に使って書こうとすればするほど、「自分が感じたそのまま」から遠ざかっていってしまうようにおもえたりするわけだけど、でも、じつはそうやって言葉によってまとまった形を作ろうとする、組み直そうとするその行為のなかではじめて、「自分が感じたそのまま」が自分のなかに存在しはじめる、っていうところはあるんじゃないだろうか。そして、いくら書いても「自分が感じたそのまま」にはたどり着けないなー、という気持ちが「自分が感じたそのまま」を外側から少しずつ強固な、リアルなものにしていくんじゃないだろうか。

パワーズはこう続けている。

だとすれば記憶とは、消え去った出来事をうしろ向きに取り戻すことだけではなく、前に向けて送り出すことでもあるはずだ。思い出された地点から、未来の、それに対応する状況下の瞬間すべてに向けて送り出すことでもあるはずだ。
新しい経験がひとつ訪れるたびに、我々が自分の過去の連続性を組み直すとするなら、おぼろげな、いまだ経験されざる過去から送られてくるメッセージ一つひとつが、未来を組み直せという挑発であるはずだ。観察によって変わらない行為はない。観察者を巻き込む行為を伴わない観察はない。何のきっかけもなしに認識の湧いてくる瞬間一つひとつが、凡庸な日常世界へ戻っていくよう私に呼びかける。捏造と観察から成る、決まりきった日々の暮らしを続けるよう、何であれ自分の手で為しうる仕事に手を汚すよう、呼びかけるのだ。(p.241)

記憶とは、未来において何かを変えようというメモである、っていうのがパワーズの主張だ。だとすれば、自分の記憶を書きとめる日記とは、そんなメモを自分なりにまとめた、自分を組み替えていくためのツールであると言えるかもしれない。いや、俺は日記が何かの役に立つとか、日記をつけていると得するよとか、そういう話をしたいわけじゃない。そうではなくて、日々のできごとや思考や感情の揺れ動きや、そんないろいろを記録に残していくこと、「自分が感じたそのまま」をなんとか掴もうとして書くこと、それが止められないのは、それがおもしろいのは、文字として記録に残すことで自分を組み替えたい、記憶を組み直したいってどこかでかんがえているからなのかもな…なんてことをおもったのだ。

だとすれば、誰か他の人が書いた日記から「心の滴」みたいなものが読み取れたように感じたとき、おもわずぐっときてしまうのもよくわかる気がする。だってそれは、自分を組み替えたい、未来を組み直したいっていうおもいは、きっと誰にとっても切実なものに違いないのだから。

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫