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『ユービック』/フィリップ・K・ディック

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

他の多くのディックの作品と同様、『ユービック』においても、世界のありようへの違和感、自分の周囲の世界がどんどん足元から崩れていくような、悪夢のような感覚が全体のムードを決定づけている。ただ、本作では、それに加えて、絶えず迫り来る死の匂い、不可避的な死の感触というやつがなんとも濃厚で、そこがこの作品独特の味わいになっているようにおもわれる。主人公たちが迷い込むことになる世界では、"時間の退行"とでも言うべき現象が発生しているのだけれど、この現象は、世界との不調和と死の近接、この双方の感覚を先鋭化し、強烈に印象づけるためのSF的アイデアとして機能していると言えるだろう。

作中、"時間の退行"現象は、2つのパターンで発現しているように見える。まず、ひとつめは、"世界全体の時間の退行"。主人公たちが存在している世界そのものの年代が退行していき、それに合わせて最新のテクノロジーがどんどん古いものに変化していってしまうーー例えば、テレビ受像機はダイヤル同調式AMラジオに、航空機はカーチス=ライトの複葉機にーーという現象。

で、もうひとつが、"主人公たちの身体の時間の退行"。これは世界全体の退行よりももっと急激に訪れるもののようで、主人公たちは「深い疲れを感じ」はじめると、もう間もなくその身体的能力が一気に退行していってしまい、超急激に老化・収縮してしまう(数時間の間に、「ほとんどミイラのように脱水されたもの」になってしまう)。こちらの現象は、主人公たちの身の回りにまでもある程度影響を及ぼしうるもののようで、手にしたタバコがぼろぼろとくずれてしまったり、コーヒーのクリームを開けると腐っていたり、などといった事態も引き起こす。どちらの現象も、いつの間にか時間が退行している…!?という感覚がなかなかに不気味だ。

この現象をどうにか解決するべく主人公たちは奮闘することになる訳だけれども、じつはここでは、現象発生のロジックというやつは、とくに重要ではない。もちろん、作中ではいちおうの回答が用意されているように見えるーー主犯は、半生者の少年、ジョリー・ミラー。それに、"過去に戻って選択し直すことができる"能力者であるパット・コンリーも、何かしらかの力を発揮していたようにおもわれるーーのだけれど、それはこの、"周囲の時間が勝手にどんどん退行していくし、おまけに、自分自身の時間までもいきなり退行してしまうかもしれない世界"の立ち上げにあたって必要とされた、差し当っての回答というやつに過ぎないのだとおもう(少年の力がどのくらいのものなのか、パットの能力がどの程度発揮されていたのか、なんかについては最後まで大して解説されないのだ)。あくまでも物語の主軸になっているのは、悪夢的な世界における自分自身と周囲の環境とのずれの感覚であり、不意に迫り来る死に対する恐怖心なのだ。

この迫り来る死、身体能力の急激な退行についての描写には、なんだか異様な迫力がある。クローゼットのなかでからからに干からび、ボロ布のようになった同僚の亡骸を見つけるシーン、あるいは、自らの死期を悟った人物が、トイレの個室にこもろうと必死で懇願するシーン。そして、物語のクライマックスともいえる、自らの衰弱を認識した主人公が、ひとりきりになることのできるホテルの部屋を目指すシーン。

心臓にズキンと激痛が走って、彼は体を二つに折った。もう一段上がろうとしたが、こんどは失敗した。足をつまずかせ、気がつくとそこにうずくまり、背を丸めて、ちょうどーーそうだ、と彼は思った。あのクローゼットの中のウェンディ。ちょうどこんなふうに背を丸めていたっけ。片手を伸ばして、彼は上着の袖口をつかんだ。そしてひっぱった。
布地がちぎれた。乾ききって脆くなった繊維は安物の仙花紙のように破れた。なんの強度もない……まるでスズメバチがこしらえたなにかのようだった。これで、もう疑いはなくなった。まもなく彼はある足跡を自分のうしろへ残していくことになるだろう。ぼろぼろになった布の切れはしを。ごみ屑の航跡がつらなる先は、ホテルの部屋、あこがれの孤独。向性に支配された最後の労苦の行動。ある指南力が、死に向かって、衰退と非存在に向かって、彼をうながしている。不吉な魔力が彼をつき動かしているーーその終点は墓場。
彼はもう一段登った。(p.279,280)

"ある指南力"、"不吉な魔力"と書かれているのは、死が訪れるその瞬間をひとりで孤独に受け止めたい、というほとんど本能的とも呼べるような欲求であるらしい。正直言って、俺にはこの感覚がいまだにぴんときていないのだけど、長々と描かれるこのシーンの持つ迫力は、些細な疑問など軽く吹き飛ばしてしまうようでもある。