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『方法序説』/ルネ・デカルト(その4)

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

ようやく本書のメインパート、デカルトの形而上学の基礎をなす、神の存在と人間の魂の存在を証明するための論拠にまでたどり着いた。先に述べられていたように、この論拠、この基礎こそがすべての学問の土台となるべきものなのだから、こいつはなんとしても確実で疑い得ないもの、絶対の真実でなくてはならない。デカルトは、いったいどのようにして証明を行ったのか?

生き方については、ひどく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合とまったく同じように、時にはそれに従う必要があると、わたしはずっと以前から認めていた。/だが当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、これと正反対のことをしなければならないと考えた。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。(p.45)

とにかくまずはありとあらゆる事象に対して疑いの目を向ける、というのがデカルトのやり方だったらしい。疑って疑って疑いつくして、すこしでも疑いのかかるものはすべからく廃棄していって、それでもなお疑い得ないものが残っていたとき、それこそが堅固でゆるぎない真実であろう、というわけだ。これがまあ、いわゆる方法的懐疑というやつである。疑いをかける対象として、ここでは大きく3つの事柄が取り上げられている。日常的な感覚知覚、幾何学、夢、がそれだ。

感覚や知覚はいつだって人を欺く(人が感知するものと、外界に実在するものとは必ずしも一致しない)ものだし、揺るぐことなどないようにおもえる幾何学の証明にしたって、理由づけや判断を誤って認識してしまうケースがあり得る。また、人は夢のなかでも(目覚めているときと同じように)思考することができるが、しかしそのかんがえは実在と一致しているとは限らない。となると、我々がいま生きているとおもっているこの生がひとつの夢だったと仮定した場合、我々がいまこうして感じている感覚や思考や推論の内容など、とにかくあらゆる表象はすべて"疑い得る"ものだということになってしまうだろう…。

…そんな感じに"疑い得る"ものをつぎつぎと消していった末に、どうしても"疑い得ない"ものとしてたったひとつ残されるのが、「コギト・エルゴ・スム(わたしは考える、ゆえにわたしは存在する)」だということになる。「いま私が感じたりおもったりしていることはすべて偽なのではないか?」とかんがえているその瞬間には、そのようにかんがえる自分自身、懐疑し、説得している主体が存在しているじゃないか、というわけだ。

どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮定できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしがかんがえることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。(p.46,47)

「自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、」「わたしが存在することが帰結する。」つまり、懐疑という手続き(あらゆる表象はすべて"疑い得る"、"不確実な"ものである、とかんがえること)を遂行した結果として、その懐疑主体が確認できる、ということだ。この懐疑の手続きによって、懐疑する主体は自分自身の身体や感覚から切り離されることになる。

わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(p.47)

たとえ、物質(=肉体)が存在しなかったとしても、懐疑する主体(=精神)は存在する。精神のほうが肉体よりも明証的であり、確実に存在するものだ、ということだ。精神は肉体とか感覚とかいうものとは別に存在している、というのがデカルトの主張なわけで、これがいわゆる心身二元論というやつに繋がっていくわけだ。

こうして、デカルトはコギトを哲学の第一原理として打ち立てているのだけれど、本書におけるこの証明の展開は、正直ちょっと駆け足気味なんじゃないかって気もする。もうすこしゆっくり話を進めてくれないと、納得しながら読み進められないよ、っていうか。そもそも、コギトの真性を保証するためには、"考えるためには、考える主体が存在する必要がある(つまり、行為には行為するための主体が必要である)"という大前提が必要なんじゃないか…?とか、俺なんかはおもったりもしてしまう。ただ、デカルトは、この命題は普遍命題から演繹的に導き出されたものではなく、それに先立つ原理としての命題なのだとも述べている。コギトとは、ありとあらゆるものを疑い、偽とした方法的懐疑の末に残ったものであるのだから、当然、"考えるためには、考えるための主体が存在する必要がある"という」ような論理法則に結びついた知識よりも確実なものだ、ということになるわけだ(たぶん…)。

 *

次いで、デカルトは神の存在証明を行っている。その方法とは、「不完全な自分が、完全な存在たる神という概念をどうして認識しているのか?」というものだ。完全性の高いもの(神)が、完全性の低いもの(わたし)に由来するものだというのは矛盾じゃないか、というわけである。

もしわたしが唯一のもので、他のすべてから独立だとして、したがって、わたしが、完全な存在者から分け与えられて持っているこのわずかばかりのものすべてを、自分自身から得ているとすると、同じ理由で、わたしが自分に欠けていると認識する残りの完全性を、すべて自分から得ることができ、わたし自身、無限で、永遠で、不変で、全知で、全能となり、ついには、神のうちにあると認めるあらゆる完全性を持つことができたはずだからである。なぜなら、わたしが今おこなった推論に従えば、わたしの本性に可能なかぎりで神の本性を認識するためには、わたしのなかに何らかの観念が見いだされるすべてのものについて、それを所有することに完全性があるかないかだけを考察すればよかったからであるし、何らかの不完全性を示すものは神のうちには一つもなく、そうでないものはすべて神のうちにあるとわたしは確信していたからである。(p.49,50)

"不完全なわたし"から"完全な神"の観念が生み出されるというのはおかしい(因果の原理に反している)、となると、"完全な神"という観念は、わたし自身ではなく、神自身に由来するものだということになる。つまり、「コギト・エルゴ・スム」という命題が真である以上は、完全者たる神もまた、存在することになる、というわけだ。

まあそういうことなので、ここでデカルトが述べている"神"というのは、とくにキリスト教における神、信仰の対象としての神、という風に限定されるものではない。聖書によってではなく、理性によってその存在が証明される、形而上学的な原理としての神なのだ。

で、この神の存在証明によって、われわれが認識することのできる知識の確実性がようやく担保されることになる。というのも、われわれは不完全な存在であるため、どんなにわれわれにとって明晰であるとおもわれる観念であっても、それが本当に真であるかどうかは"完全な神"の存在抜きでは保障できないのだ。超ざっくり言えば、「わたしはかんがえる、ゆえにわたしは存在する」→「不完全なわたしだが、神という観念を持っている」→「神という完全者が存在する」→「れれわれを創り、また真理を創ったのは神である。神は完全な存在であるので、われわれが理性を十全に利用した末に明晰判明に認識できる真実であれば、それが偽であることはあり得ない」…、という感じの流れになるだろうか。ともかく、この世界の合理性というやつは、完全者たる神の存在を証明することによって、ようやく保障されたわけだ。