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『流れよわが涙、と警官は言った』/フィリップ・K・ディック

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

タイトルのかっこよさに負けず劣らず、内容もじつに素晴らしいディックの74年作。ある朝、TVスターの男(ジェイスン・タヴァナー)が目を覚ますと無名の一般人になっていた、っていういかにもSF的な世界の話であり、その男を追う警察本部長(フェリックス・バックマン)が愛を見出していく、きわめてセンチメンタルな物語でもある。ディックのハードな人生のなかでも相当に辛く苦しい時期に産み出された一作らしく、物語全体が陰鬱で不安げなトーンに包まれている。

雰囲気がなんだか不安げなのと同様に、この小説は構成そのものもふわふわとしていて、おぼつかない感じがある。物語を牽引していく主人公は第一部の主人公たるタヴァナーのようなのだけど、読み進めていくうちに主題が少しずつバックマンの方へとずれていってしまうのだ。それはしかし、構成がうまくいっていない、ということではない。そうではなくて、2人の視線が交錯するカオスのなかでそのどちらもが相対化されるというか、もやもやとした不安定な物語のなかから2人が抱えるやっかいさのその双方ともを抱き止めるような情感が溢れ出てくるようになっている。

そんな暗くおぼつかない物語世界のなかで取り扱われているのは、まあ端的に言って、愛の問題だ。

作中において、愛とはいつか必ず失われるもの、あるいは、損なわれ、失われてからはじめて見出せるもの、として扱われている。人は誰かを愛し、また、愛されるかもしれない。時間をかけて自分と他者とのあいだに気持ちを繋げるための橋のようなものを架けることができるかもしれない。そうして自分のこと以上に相手のことを大切におもったり、相手の感情を自分のものと同じくらいリアルに受け止めることができるようになるかもしれない。だが、それはいつか必ず失われるのだ。どのようにして形作られた愛であっても、最後には何も残らない。消えてしまう、まるではじめから何もなかったかのように。

「だれかを愛し、やがて彼らは去る。ある日家に帰ってきて、身のまわりのものを荷づくりしはじめる。そこできみはきく。"いったいどうしたの?"って。彼らは"ほかにもっといい話があるんでね"そう言ってきみの生活から永遠にさようならだ。それからあと死ぬまできみは与える者はだれもいないのにその大きな愛情という塊りを抱えてまわるのさ。そしてもしその愛情を注ぐ相手が見つかったとしても、同じことがもう一度起こるんだ。」(p.180,181)

「愛していなければ悲しみを感じることはできないわ――悲しみは愛の終局よ、失われた愛だものね。あんたはわかってるのよ、わかってると思うわ。でもあんたはそのことを考えたくないだけなの。それで愛のサイクルが完結するのよ。愛して、失って、悲しみを味わって、去って、そしてまた愛するの。ジェイスン、悲しみというのはあんたがひとりきりでいなければならないと身をもって知ることよ。そしてひとりきりでいることは、生きているものそれぞれの最終的な運命だから、その先にはなにもないってことなの。死というのはそういうことなの、大いなる寂寥ってことよ。」(p.183)

それはどうしようもなく寂しいことだし、辛いことでもあるけれど、でもそれはやはりどうしようもないくらいに真実なのだ。物語の最後、そのことに気づいたとき、警察本部長のフェリックス・バックマンは失われたもののために涙を流すことになる。

男が泣くのはなぜか?/男はなにかが、生きているなにかが失われたときに泣くのだ。病気の動物が、もう回復の望みがないと知ったときに泣く。子供の死。男はそのためにも泣くことができる。しかし、物事が哀れをさそうからではない。
男は未来や過去を思って泣いたりはしない。現在を思って泣くのだ。それでは現在とはなんだ?(p.346)

自分のしっている現実を失ったタヴァナーと、愛するものを失ったバックマン。2人が対置されることによって、愛というもののはかなさ、生きることの寄る辺なさが映し出される。愛は必ず失われるが、愛がなければ生もまたない。失われるとわかっていてもなお求めずにはいられない、そんな人の姿をディックは慈しむように描き出している。