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『ノア・ノア タヒチ紀行』/ポール・ゴーガン

ヨーロッパを逃れ、はるばるタヒチまでやってきては観光したり絵を描いたり、ぐでぐでしたりしているゴーギャンの自伝というか滞在記というか、メモ書きみたいな感じの一冊。ゴーギャンがタヒチで描いた絵の版画バージョンが収録されてもいる。まあ正直、読みものとしてそんなにおもしろいものではなかったのだけど、ところどころ印象的なシーンはあった。

たとえば、エドゥアール・マネのスキャンダラスな作品、『オランピア』の写真の話。『オランピア』は、女神のように理想化された女性像を描くのがふつうだった当時の美術界において、非常になまなましい、リアルな裸婦の姿を描き出した、っていうような意味において革新的な作品だったらしいのだけど、ゴーギャンはこの絵のことがとにかく気に入っていて、写真をタヒチまでわざわざ持って行っていたのだという。

『ノア・ノア』において、その写真に撮られた『オランピア』はこんな風に登場している。

私はずっと前から、タヒチ人の顔の非常に特殊な性格をはっきりつかむため、マオリー人の魅力ある微笑をつかむために、タヒチの純粋な血統をもったある近所の女のポルトレを描きたいと考えていた。

ある日私は、彼女が遠慮もとれて、私の小屋へ絵画の写真を見にきた時を利用して、それを頼んでみることにした。その女は、オランピアを、ことさら興味深そうに見つめていた。

「その絵をどう思う?」私はその女にきいてみた。/

隣りの女は答えた。

「この女はたいへん美しい」

私は、この反応に微笑み、同時に感動した。この女は、「美」の感覚をもっているのだ!しかし美術学校の先生方は、この女について何というだろうか?女は、突然、もの思いに沈んでいたらしい沈黙を破ってつけ加えた。

「これはお前のお嫁さんか?」

「そうだ」

私は、こんな嘘をついた!私が、オランピアの「男(ターヌ)」であろうとは!(「ノア・ノア」p.24,25)

おいおい、なに嘘ついちゃってるの、なんかゴーギャンかわいいじゃんなー、なんてちょっとおもったりしたのだけど、TASCHENの『ポール・ゴーガン』(インゴ・F・ヴァルター)では、このエピソードについて結構辛辣な書き方がされていたのをおもい出したりもした。

タヒチの首都パペーテから50キロほど離れた密林地帯マタイエアに、ゴーガンは小屋を建てた。愛人のテフラは典型的なポリネシア美人だった。ゴーガンは興にのって彼女に「妻」について話してきかせた。妻の写真をもっていると言った。彼が住んでいた小屋の壁には、多くのスキャンダルを生んだマネの裸体画『オランピア』(パリ、オルセー美術館蔵)の複製が貼られていた。彼が携えていた「妻」の写真とは実はこのオランピアだった。これを話のなりゆきで妻メットに仕立てた。ごく自然原住民の裸体と、文明人の破廉恥な姿態。村の女の素朴な優美さよりも、マネの裸体画の中に、ゴーガンは理想の女を見いだしたようだ。(p.46)

なんだかずいぶんニュアンスが違う。あと、文明人の破廉恥な姿態、ってところがすごい。

ちなみに、ゴーギャンを主人公のひとりにして書かれた小説、バルガス=リョサの『楽園への道』では、『オランピア』について、こんなことが書かれていた。

「稲妻に打たれたかのように、幻影を見たかのように感じたね」とポールは説明した。「エドゥアール・マネの『オランピア』。その絵はそれまで見たこともないくらい印象的な作品だった。で、俺は思った。〈こんなふうに絵を描くのは、ケンタウロスになるとか神になるようなものじゃないか〉俺は思いついてしまったんだ。〈俺も画家にならなければ〉もうあまりよく覚えていないけどね。でもなんだかこんなところじゃないかな」(p.370)


「女神で娼婦で、他の者でもある」ポールは友人たちのように笑わないで言った。「それがこの絵のすごいところさ。一人の女の中に千の女がいる。あらゆる欲望のための、あらゆる夢のためのね。俺が飽きない唯一の女だ。今では俺にはほとんど見えないがね。でもこことここ、そしてここにあるぞ」

そう言いながら、コケは自分の頭と心臓とペニスをさした。(p.372)

『楽園への道』はかなり熱い小説だったけど、破廉恥な姿態を晒しながらもおのれの信念を貫き、欲望のままに生きるゴーギャンの姿もすごくかっこよく描かれていた。