ひさびさに読んだけど、いやーやっぱりすごい小説!すっかりのめり込むようにして読んだ。とにかく全編通して乾いていて不気味で、でも同時に混沌とした美しさが溢れてもいる。
舞台は最終戦争後の荒廃しきった地球。バウンティ・ハンターのリック・デッカードは、火星から逃亡して地球の人間社会に潜伏している8体のアンドロイドたちを追い、抹殺する、という任務を課されるのだが…!っていうのがストーリーの大枠だけど、そのなかで、人間らしく作られたアンドロイドと、疎外された人間との(ごくごくわずかな)違いについての考察がなされていく。
アンドロイドたちは見た目も知能もほとんど人間と同等なのに、どこか微妙なポイントで確実に人間とは異なった生き物になっている。そのわずかな、それでいて決定的な相違が妙に不気味で、小説全体のぴりぴりとした緊張感が絶えることは、最後までない。アンドロイドは他人に感情移入することがなく、つまり他者と同一化する(しようとする)ことがない。彼らの言語や意識は、いわゆる人間的な愛やナルシシズムとは無縁のものなのだ。そのため、主人公のリックはアンドロイドたちと対峙していく過程で、自己や世界の再構築を求められることになる。自己や世界についてのそれまでの了解の仕方とは異なった、別のあり方を見出さねばならなくなるわけだ。
たとえば、リックはアンドロイドのレイチェルに惹かれているけれど、彼のその感情には行き場がない。愛であれ憎しみであれ、その行先、いちおうの到達点が仮にでも見出せなければ無意味というか、ほとんど存在のしようがなくなってしまうからだ。そして物語終盤、レイチェルがリックの山羊を殺すのは、同胞のアンドロイドたちが殺されていったことへの復讐なのではない。レイチェルの行為は人間的な愛やナルシシズムの外部にあるもので、だからこそリックは圧倒的な空しさを、疲弊を感じることになる。
人間たちは感情移入をベースとしたいんちき宗教、マーサー教に絡めとられている。マーサー教は端的に嘘っぱちでまがいもの、虚構の塊なのだが、人間にとってはそのようないんちきや嘘が全てであり、人間はそのなかでしか生きていくことのできない存在なのだ。リックはマーサー教を信じるのもアンドロイドを殺すのも決して「正しい」ことではないと理解しながらも、しかしそうする他ない。人間には他にやりようがないからだ。
「どこへ行こうと、人間はまちがったことをするめぐり合わせになる。それが――おのれの本質にもとる行為をいやいやさせられるのが、人生の基本条件じゃ。生き物であるかぎり、いつかはそうせねばならん。それは究極の影であり、創造の敗北でもある。これがとりもなおさず、あらゆる生命をむさぼる例の呪いの実体じゃ。この宇宙のどこでもそれはおなじこと」(p.229,230)
人間たちの、アンドロイドたちの愚かしさ、邪悪さに対してディックははっきりと諦念を抱えているようだ。だがそれは、我々はそれでもなお、そんな不完全さのなかでなんとかやっていくしかない、という諦めのようでもあり、彼らに向けられるディックの視線は、どこか温かくもおもえる。
まったく、なんて仕事だ、とリックは思った。おれは、飢饉や疫病なみの崇りなんだ。おれの行くところへは、古代の呪いがつきまとってくる。マーサーのいったように、おれはまちがったことをするさだめなんだ。おれがいままでにやってきたなにもかも、出だしからまちがっていた。まあ、とにかく家へ帰ろう。しばらくイーランといっしょにいれば、それを忘れられるかもしれない。(p.289)