これも前作と似たような感じ。文章はもうとにかく、ひたすらに薄っぺらい(悪い、ということとは違う)。いじめだったり人食いだったりと、やたらと残酷な行為やグロテスクなシーンが満載でありつつも、薄っぺらな描写はその過激さを軽減しているようでもある。それは単純にリアリティがどうの、って話ではないとおもうけれど、描かれている内容のわりには、おどろおどろしくない作品に仕上がっているようにおもえた。
私は恍惚の中で内臓をタッパーにつめると、四肢と首の切断に取りかかった。冷凍されていない肉を切断するのは大変だった。肉が柔らかいうえに黄色っぽい皮下脂肪があふれて、ノコギリの歯が上滑りを起こしてしまうのだ。汗が流れ落ち、腕が疲れたが、それでもノコギリを引く手は緩めなかった。肉は鮮度が大切なのだ。
すべての切断を終え、解体道具を片付け、バスタオルで全身をふき、替えのシャツを着て、終了。作業時間は一時間半ほど。アスレチック小屋に残されたのは、新巻鮭のように中身の抜かれた胴体部分のみ。(p.89)
とはいえ、この作品について何か語ろうとするとき、その表層のところだけをさらってみてもあまり意味はないだろう。だいたい、作中に登場するたくさんの引用やら謎やらトリックからして、どれも結局大して重要なものではない、と言わんばかりの扱われようなのだ。
この小説がおもしろいのは、世界のありようというか、人と人との関係のあり方についての、強烈なモチーフみたいなものがあるからなんじゃないか、って気がする。それは世界と、他者と、もうどうしようもないくらいに隔絶されている、というような感覚だ。まあ、隔絶されているからこそ、その溝をなんとか埋めていこう、みたいなポジティブさがあるわけじゃないし、登場人物たちのふるまいも態度も、それらを作品として織り上げていく作者の手つきにしても、とにかくむちゃくちゃで首肯しがたいものばかりではある。ぜんぜんうつくしくないし。なのだけど、それでもたしかに強烈なことは間違いなくて、モチーフのその激しさこそが、小説全体の印象をちから強いものにしているようにおもった。
そういえば、俺は読んでいたときにドストエフスキー『地下室の手記』の、こんな文章をおもいだしたりしていた。
小説(ロマン)には、ヒーローが必要だが、ここにはわざとアンチヒーローのあらゆる特性が集められている。それに、肝腎なのは、この一切が、このうえもなく不愉快な印象を与えるとう点だ。なぜなら、俺たちは皆、生活から離脱し、各人が多かれ少なかれ欠陥をかかえているからだ。どれほど離脱しているかと言えば、どうかすると、本物の≪生きた生活≫に対して、なにやら嫌悪感すら覚え、それゆえに≪生きた生活≫のことを思い出させられると、耐えられないほどなのだ。/それでいてなぜ、ときには、なにかごそごそやってみたり、無茶をしてみたり、願望を抱いたりするのだろう?自分でもなぜだかわからないのだ。(p.259)
なかなかこの小説にフィットする一節なんじゃないかなー、なんておもう。