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『地下室の手記』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)
下級官吏である主人公は、長年勤めた役所を辞め、“地下室”と呼ぶアパートの一室に閉じこもっている。彼は外界との関わりを断って、ひたすら自身の内面を手記として書きつけていっているのだ。その思考は、自身の内面をぐるぐると回り、疑い、傷つけながら、しかし結局どこに行き着くでもないように見える。

諸君、誓ってもいいが、今書き散らしたことのうち、なに一つ、一語たりとも、俺は信じていないんだ!いや、そうじゃない、俺はたぶん信じてもいるのだが、同時に、なぜだかわからないが、自分がどうも下手な嘘をついているのではないかと、疑っているのだ。(p.76)

この小説の仮想敵になっているのは、作中の「二、二が四」に象徴されるような、合理主義的、功利主義的なかんがえかただと言っていいだろう。主人公は地下室の住人、強烈な個人として、そういった安易な理論や、集団主義的なものへと執念深く突っかかっていく。彼はとことん自意識過剰で傲慢、おまけに見栄っ張りな男なのだけれど、だからといって読者は彼を簡単に突き放すようにして読んでいくことはできない。というのも、この小説を読んでいくことは、どんな人の意識のなかにも互いに相反するさまざまな要素(善意と悪意、明るさと憂鬱、自信と無力感…)が共存しており、それらは常にきわきわの攻防を繰り広げているってことを――もう、否応なしに――突きつけられることであるからだ。ある人が地下室の住人のように「病的」ではないと言ったところで、それは、たまたまそれらの要素のバランスが保持されている、ということに過ぎない。それに、そんなのはその人のおもい込みであるかもしれない。

地下室の住人は、じつにいろいろなものを憎んでいる。世界全体の調和を憎み、単純な功利主義のニヒリズムを憎む。健康な「やり手タイプ」を羨みつつも憎めば、自身の低俗さや支配欲だって憎む。彼はそんな自分のことを病んでいる男、ねじけた根性の男だと言うけれど、しかしそれと同時に、彼は強い人間でもある。彼は安易に自身のもつ憎しみを正当化することなく、その激しい感情に対して、ほとんど愚直といっていいような態度で向き合っていく。それってなかなかできることじゃない。いや、でも、そんなことをしていれば病んでいくのは当然だ。

おまえはたしかに何かを言いたいのだろうが、臆病ゆえに、最後のひと言を隠している。なぜなら、それを言い切るだけの決断力がなくて、あるのはおっかなびっくりの図々しさだけだからだ。おまえは自意識がご自慢だが、二の足を踏んでばかりいるじゃないか。それというのも、おまえは頭は働いても、心が悪徳で曇っているからだ。清らかな心なしには完全な正しい意識はありえないものだよ。それにしても、おまえはなんてしつこくて強引なんだ、なんて見栄っ張りなんだ!嘘、嘘、嘘で塗り固めているじゃないか!(p.77,78)

まあ、じっさい彼はさまざまな理屈をこねて憎むものたちを否定してはいくのだけれど、否定否定の行き着く先は、結局自分自身の否定にまで至ってしまうような感があって。その様子はなんだか滑稽でありつつも、どうにも悲しくて、しかもそれが自分とは無関係だなんてとてもおもえないから読んでいてつらくなるけれど、でも、本当に“向き合う”っていうのはそういうことなのかもしれないなー、なんておもったりもした。