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『楽園への道』/マリオ・バルガス=リョサ

もうもう、とにかく、すばらしい小説だった!!鮮やかなオレンジに惹かれて本屋で1ページ目を立ち読みした瞬間から、これは絶対いい!と確信していたのだけど、読んでいる間にその確信がぶれることはなかった。

描かれるのは、ペルー総督の血を引く女性文筆家、フローラ・トリスタンと、その孫の画家、ポール・ゴーギャンの物語だ。2人の話は1章ずつ交互に語られていって、その2つが明確に交わったり絡まりあったりすることは最後までない(ゴーギャンが生まれるのは、フローラの死んだ4年後)のだけど、さまざまなイメージやモチーフ、感覚が、2つの物語の繋がりを感じさせるようになっている。

物語を牽引していくのは、なによりも2人の主人公、フローラとゴーギャンの魅力だと言っていいだろう。フローラ・トリスタンって、俺はこの小説ではじめて知ったんだけど、フェミニズムの文脈なんかではかなり有名な人らしい。“サン・シモニズムの戦士”なんて形容されることもあるみたいだけど、この小説に描かれるフローラは、〜主義者とかっていうよりも、もうただただ頑なまでに自らの信念に従って動いていく女性だ。『外国の女性を歓待する必要性について』、『労働者の団結』といった著作によって女性解放運動の先駆けとなった彼女は、被搾取者の連帯、解放を目指して、ひとりフランスを旅して回る。それも、単にあちこちで講演をして回るのではなくて、労働者のもとに直接おもむいて団結を訴え、実際に組織を作っていく。

あのような愚かな人々に何を期待できるというのか。ブルジョワというのはどうしようもない輩で、そのエゴイズムが普遍の真実を見ることを永遠に阻んでいるのだ。/女性を労働者に接近させ、互いに協調して、政治も、軍隊も、政府も潰すことができないような、国境を越えた同盟関係を作っていく。そうすれば天国は抽象的なものではなくなり、司祭たちの説教や信者たちの軽信から離れて、すべての人々にとって現実に日々の暮らしそのものになるだろう。(p.401)


ゴーギャンも、愚直なまでに自らの信念に従って生を全うした、という点ではフローラと共通するところがある。信念にひたすら従って生きる、そんな生き方は、周りからすれば、まあ、きわめて身勝手な傍迷惑なやつだ、ということでもあるのだけれど、とにかくゴーギャンは、他の誰よりも頑固であること、異色であることを求め続ける。

おまえは何年も前から、芸術家になるためにはブルジョワの持つあらゆる類の偏見を捨て去ることが必要で、良心の呵責はそのような無用の長物の一つだときっぱり決断していた。食べるために鹿に噛み付く虎は後悔するのか。コブラは小鳥の身をすくませて生きたまま飲み込むとき、良心が痛むのか。(p.286)

ゴーギャンは、南の島の住民たちの、“野蛮な”原始生活のなかに、何か未分化なもの、根源的なものを見出そうとした。ゴーギャンの欲望は、彼らの内にある原初のエネルギーを実感したい、というものだと言っていいだろう。もちろん、それはもうすでに失われかけたものであるし、おまけにゴーギャンは結局のところヨーロッパ人なわけで、それを完全に実感するのは不可能なのだけれど、でも彼はひたすらにそれを目指す。それが不可能なもの、どうあっても叶うことのない願望であるがゆえに、彼はそれを強く欲望する。つまり、叶わないからといって欲望することを止められるわけではない。手の届かないもの、それはつまり“楽園”のことでもある。

フローラの夢見たユートピアも、ゴーギャンの探求した原初のエネルギーと同様に、決して存在しないものなのであって、それを手中に収めることはどうしたって叶わない。けれど、だからこそ彼らのそれを求める情熱は切実なものになってくるし、彼らの切実なおもいはとても魅力的にも見える。手を伸ばしても伸ばしても届かない幻、それを“楽園”と呼ぶのであって、届かないからこそ、人はそれにどうしようもなく魅かれるのかもしれない。

もちろん、彼らの行動が後の世の中に影響を与えた、ってことは確かなことだろう。「『共産党宣言』に至る道程の第一歩を踏み出したのは、じつはフローラ・トリスタンだった」、とか、「芸術と生活、幻想と秩序の結合を体現し、20世紀近代絵画の先駆けとなったのが、ポール・ゴーギャンだった」、とか、まあその通りなんだろう。だけど、それはあくまでも結果に過ぎない。彼らの生の魅力は、そんな後付けの意味や価値に還元されるところにあるわけじゃない。というか、そういう、意味や価値っていう一言に簡単に要約できないものを描き出すのが小説のちからだ。

フローラもゴーギャンも、いわゆる歴史上の有名人であるから、“伝記的事実”というやつがいくらか残されている。基本的にはそれに沿うようにして小説が書かれているわけだけど、もちろん“伝記的事実”からはフローラやゴーギャンの感情や、彼らがそのときおもっていたことなんかはわからない。だから作家は想像力によってそれらを補完し、独自のかんがえに基づく、“こうであったかもしれない”、“こうであったはず”というようなリアリティを生み出していくことになる。

バルガス=リョサが描き出すのは、あくまで頑ななまでに自らの信念を貫いて生を全うした、ひとりの人間だ。ひとりの人間だから、信念を貫いた、なんてかっこいいことを言っても、やっぱりたくさんの矛盾や間違い、かっこわるいところがあるし、それに結局のところ、彼らは手の届かない楽園を夢見ていた、って言うこともできる。でもだからって彼らの生の、あるいは信念の価値、というか、熱さみたいなものが薄まってしまうわけじゃなくて、『楽園への道』には、そういうものも全てひっくるめて、彼らの生、彼らの情熱が、共感や憧れのまなざしをもって描かれている。って、こうやって一言にまとめた文章には内実も何もないのだけど、そういう一言にはない、フローラやゴーギャンの熱や時間やこころの動きをこの小説はしっかりと描き出している。そこが何よりすばらしいとおもって、俺は感動した。

バルガス=リョサの小説は以前にも何冊か読んだことがあって、なんていうか、もっと読みにくい小説を書く人、って印象があったのだけど、この作品に関しては、明晰な文章がとてもよかった。訳の問題もあるのかもしれないけど、きわだった特徴があるようには見えないのに、なんだかとても惹かれる文章で、それはちょっとふしぎだった。