アトウッドのとる姿勢は、フェミニズムの観点から神話を読みなおし、語りなおす、というものだと言っていいだろう。この小説では、ペネロペイアをはじめとする登場人物たちの“俗っぽい”側面がクローズアップされていて、全体的にパロディっぽいトーンが濃厚になっている。
ペネロペイアがギリシャの神々について語っているところを引用。
わたしが思い描く神々の図というのは、オリュンポスの山でごろごろしながら、甘美な神の酒と食べ物に溺れ、骨と脂身を焼いた芳香につつまれ、病気の猫にちょっかいを出す十歳の子の集団みたいにイタズラで、時間をもてあましている、というもの。「今日はどの祈りを聞き届けてやろうか?」と、顔を見あわせ、「サイコロをふって決めよう!こいつには希望を、あいつには絶望を。でもって、こうして仕事をしている間にも、あの女の人生をめちゃくちゃにしてやれ。ザリガニに化けて彼女とセックスしてさ!」神々は退屈まぎれに、山ほど悪さをしているに違いない。(p.153)
妙に軽いけど、こういう感じはちょっとおもしろい。
物語は、ペネロペイアの一人称で過去を振りかえる、という形で語られていく。その語り口には遊びごころみたいなものも感じられはするのだけど(語り/騙りの問題とか)、小説全体として見ると、どうにもうすっぺらな印象は否めないようにおもった。小説そのものの短さもあいまって、いまいち書き込みが足りない感があるし、壮大な神話の世界を語るにしては、単に出来事の羅列に落ち着いてしまっているようで。
もっとも、俺は『イリアス』も『オデュッセイア』もしっかりと読んだことはないので、そういう基礎教養がちゃんとあったら、もっとおもしろく読めたんだろうなー、とはおもう。