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『肝心の子供』/磯崎憲一郎

肝心の子供
もうあちこちで散々言われていることだとおもうけど、この小説はすごい!!すっごいおもしろい!!おもしろいことだけは、まったく明白なのだけど、でも、そのおもしろさとはどういったものなのか、どうにもうまく表せない。たぶん、そこがすごい。いったい何がどうおもしろいのか、その核心みたいなものが(そんなものがあるとして、だけど…)つかめる感じが全くしない。文章の強度とか、そこに宿る意思とか、ちからとか、そんなことばをつかって、うやむやにしたくなったりしてしまう。語られるエピソードのひとつひとつはとても鮮烈なのだけど、小説全体には、安易な隠喩的な解釈を拒んでいるような印象があって、“意味”“象徴”みたいな、小説を語るのに(あるいは説明・解釈するのに)都合のいい枠にきれいに収まってはくれない。

しかし、いちばん驚いたのは、なんだかぜんぜん日本の小説って感じがしない、ということだ。かといって、保坂和志が言っているようにボルヘスっぽいともおもわなかった。ボルヘスっていうと、もっと知的でアイロニカルな印象がある。あと、技巧的で、すべてを把握しているような態度。この小説にはそういう感触はなくて、ただ、小説内の時間がどんどん流れていく感じなんかは、むしろガルシア=マルケスの『百年の孤独』を連想したりした。いや、でもべつにガルシア=マルケスっぽい小説って訳でもないのだけど…。簡単に何かしらの文脈に当てはめることができない、ってところが、やっぱりこの小説のすごさであり、おもしろさなんじゃないかとおもう。

この小説の文章は、冒頭、“神の視点”的な立場から語られているように感じられるのだけど、その後の数行で語り手はブッダに接近し、後にはほとんどブッダと同一の視点を持った語りにも移り変わっていく。
冒頭部をちょっとだけ引用すると、

 ブッダにはラーフラ、束縛という名前の息子がいたのだが、名付けたのはブッダではなくその父、スッドーダナ王だった。その名を思い付いたとき、スッドーダナ父王は、大いに喜んだのだという。
 ブッダは十六歳のときに結婚している。婚礼の日の朝はやく、従者も連れずひとりで彼は城を出た。城下の町を抜けて、渓谷沿いの山道を馬でゆっくりと登って行った。冬だった。水はまだ涸れていなかったので、岩と枯れ草の重なりあう向こう、谷底深くからかすかな渓流の音が聞こえていた。馬は白い息を吐き、薄茶の砂と小石の混じる坂道を一歩一歩おとなしく登って行ったが、雪をいただいているのに遠目にはいつも黒くしか見えない険しい山々のうえ、向かい側真っ正面から差し込む朝日にまぶしそうに、伏し目になりながら歩いているようにも見えた。

少しずつ、ブッダの視点に近づいていっているきぶんがある。ほんとはもっと長く引用するとわかりやすいのだけど、ちょっと長いので省略。次の段落での語り手の視点は、もうほとんどブッダと重なり合っている。

東へ、さらに朝日の方向へ馬を進めるうちに、ブッダはまた眠くなった。目を瞑った。少しして周囲の景色に驚き、眠っていて夢を見たのかと思ったが、そうではなかった。

こうやって語り手が登場人物に接近していくのと同じくらい滑らかに、再び神のような、あるいは事後的な感じのする視点に戻ることもある。この、語りの視点の移り変わりっぷりがすごくうまくて、読んでいてどきどきしてしまう。俯瞰したようなきもちで読んでいるなかで、いきなり、生々しい身体感覚がぐっと迫ってくるところがあったりするのだ。この感覚がふしぎで、読むスピードもなんだか一定しない。

単行本の帯には、保坂和志の選評から、「その生も歳月も押し流す文章の強度は、まさに小説というフィクションでしか実現しえないものだ。」ってことばが載っていたけど、まさにその通りで、こういう小説を読むと、小説ってジャンルの可能性をずいぶん狭めてかんがえていたんだな、ってあらためておもい知らされる。もっと「世界文学」って視点を自分のものにしていかないと、こういう小説をうまく語ることはできないんじゃないかな、っておもう。だって、多少なりとも似たところのある小説、ってことで俺におもいうかべられるのが、ガルシア=マルケスとかボルヘスとか、ほんとにそのくらいしかなくて。