物語は前作からつづいている。父親たちとともにドッグヴィルを出たグレース(ブライス・ダラス・ハワード)は、南部のマンダレイという農園へとたどりつく。そこでは、奴隷制度廃止から70年たったいまでも、白人による黒人奴隷制が敷かれていた。グレースは自らの信念にしたがって奴隷を解放、民主主義をマンダレイに広めようと試みる。
『ドッグヴィル』においては、グレースの傲慢さは彼女の精神的な強さとしてあらわれていたようにおもうけれど、今作では、その傲慢さの脆弱な側面がはっきりと映し出されている。物語がはじまってすぐ、マンダレイの奴隷制度を撤廃するためにグレースがとるのは、ギャングによる武力制圧という方法である。ドッグヴィルでの経験をふまえて、彼女は、まず「悪」を駆逐することが重要だとかんがえるようになったわけだ。このあたり、現在のアメリカのイラクに対する表向きの態度に符号するものだといえるだろう。そんな彼女の態度というのは、はっきり言ってしまえばむちゃくちゃであり、全面的に共感できるようなものではない。いったい彼女は何をしたいのか?彼女を駆り立てるものは何なのか?ってかんがえてみると、それはまさに、彼女の欲望――自らの信念を貫きたい、それが間違っていないという確信を得たい、という――に他ならないんじゃないか、っておもわれてくる。そして、その信念とは、世の中をよくしたい、というような、うつくしくはあるが、しかし素朴ともいえるようなものだ。
グレースにとってもっとも重要なのは、おそらく、“正しさ”という概念なのではないだろうか。正義、といってもいい。しかし、マンダレイの黒人たちにとって、彼女の“正しさ”がひとしく正しいものだとは必ずしも言えないし、ラース・フォン・トリアーにとってはおそらく、世界に“正しさ”なんてものはない、あったとしても、現実にはそんなものよりももっとたいせつなものがあるはず、ということなのだろうとおもう。トリアーは、グレースの方法は間違っている、という主張をあくまで論理的に描いてみせる。このあたりがやっぱりこの映画のいちばんの見所で、グレースがよかれとおもってとる行動は、ことごとく裏目にでることになる。彼は、グレースを辛辣な視線でもって映し出すことで、具体性、現実性に欠けるリベラリストたちの態度を厳しく批判してみせるのだ。俺は、「アメリカ例外主義」を批判する、チョムスキーの主張をおもいだしたりなんかした。
まあ、正直言って、グレースはあまりにも無邪気というか、ずいぶんと素朴なリベラリストであるように見えてしまったので(それは、トリアーの視線がはじめからあまりに辛辣すぎるからかもしれないけど)、彼女のかんがえかたや態度にはほとんど共感できるところはなかった。でも、あくまでこれは3部作の2作目、って位置づけなのであって、3作目でグレースがどう化けるのか、なかなかたのしみでもある。それまでに、リベラルの主張についてももうちょっと知らなきゃだめだな自分、とおもう。