渋谷にはマックがいくつかあるけど、どのマックでも、その2階から外を見るのがすきだ。窓に向かってカウンター席が並んでいて、座っていると外の様子が見下ろせる。空気が澄んでいるせいか、窓がぴかぴかなせいか、景色や道行く人がくっきりとしている。マックの店内は暖房や人の熱気でもあっとしているけれど、窓際の席には外の空気が伝わってきて、ちょっとさむい。おおぜいの人たちがゆるい坂道を登ったり降りたりしているのが見える。いろんな人がいる、っておもう。
うしろのほうから、「そうー。でね、マイミクが12人だと、それだけの人にしか日記みてもらえないわけじゃん?なんか自己満って感じがしてー」とか、中学生くらいの女の子の声がきこえる。となりの席では30歳OL、みたいな感じの2人組が話をしている。「わたしV6の曲っていいとおもったことなかったけど、今度のはいいとおもう」「ふうん」
俺は本を読んでいる。本を読みながら、アップルストアにiPodを修理に出す順番待ちをしている。でも読書に集中してはいない。俺のまわりにはV6の曲をいい、とかいう人はいないな、っておもう。たぶん。わからないけど。もしかしたら、ひとりくらいはいるかも知れない。人のすきな音楽なんて、案外わからないものだ。俺も、自分のすきな音楽の話を存分に話せる友達なんて、そうそういない。まわりにも、ティーンエイジファンクラブとザゼンボーイズとホレス・パーランとブラームスの交響曲第1番が同時にぜんぶすきなんて人はたぶんいない。人の数だけいろいろな好みがあって、それぞれがそれを自分なりにだいじにおもって生活してるんだな、っておもう。われながらひどい感想。「みんなちがって、みんないい」じゃないけど。
正直言って、俺はあのことばがあんまりすきじゃない。いや、たぶん正確には、あのことばの受容のされかたが、すきじゃないんだとおもう。なんか安易すぎる気がするから。学校教育で、「個性をだいじに」なんていうのと同じようなにおいを感じる。そんなこと言っちゃって、何もかんがえてないんでしょどうせ。だからって俺がいろいろかんがえているかっていうと、当然そんなことはなくて、だから俺が「あんまりすきじゃない」なんて言うほうがよっぽど安易だ、とはおもうんだけど、それでも気に食わないものっていうのは、やっぱりある。でも、ある人がいいって感じているものを否定したいきもちが生まれるのはなんでだろうっておもう。べつにわざわざ「きらい」なんてかんがえたり表明したりせずにほっとけばいい、って気はするけど(だいたいはそうするけど)、ほっとく、無視するっていうのも、やっぱり否定的なニュアンスをともなう動作だとおもう。はいはいそうだよね、っていう、上から目線みたいな。肯定じゃなければすなわち否定、ではもちろんないけど、なるべくいろんなことを肯定できたらいいのに、っておもう。でも、こんな物言いは素朴すぎるな。
小学生の男の子とお母さんとの会話が聞こえる。母(メールを打ちながら)「ねえいま風邪で流行ってるの、なんだったっけ」小学生「インフルエンザ?」母「あーそうだった」小学生「(呆れたように)そんなのもわかんないの」俺はいつもこんな態度の子どもだった気がする。身近な大人に対して。