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『お節介なアメリカ』/ノーム・チョムスキー

お節介なアメリカ (ちくま新書)

お節介なアメリカ (ちくま新書)

チョムスキーがくりかえし批判しているのは、アメリカが9・11以降執拗におこなっている、中東地域への内政干渉(intervention)だ。そこでは「テロとの戦い」という旗印が掲げられてはいるけれど、この本を読むと、むしろアメリカ自身が、自ら定義した「テロ」に当てはまる行為をおこなっていることがよくわかる。なぜアメリカはそのようなお節介を続けるのか?どのような原理がアメリカをそのような行為に駆り立てているのか?という疑問に対し、チョムスキーはこう述べている。

アメリカの外交政策には明確なドクトリンがあり、これが西側のジャーナリズムや学界、政治評論家の間にまで浸透している。その主題は「アメリカ例外主義」である。アメリカには「超越的な目的」があるので、今も昔も他の大国とは違う存在なのだという主張だ。「超越的な目的」とは、アメリカが「国内」はもちろん世界各地でも「自由の平等を確立」するというものである。

このような「超越的な目的」をドクトリンに持つ立場――独自の強引な世界観に基づいて世界を形成しようとする――を、チョムスキーは「例外主義」として批判しているのだけれど、そこで、リチャード・ローティが『RATIO』の01号でこんなことを書いていたのをおもいだした。

私のように、我が国を左派的理想の勝利の象徴として描く物語を作る人々は、合衆国がそれらの理想を実現し広めるために活動する力を保持することを望んでいる。合衆国には他国に干渉する権利はないというチョムスキーに、われわれは同意しない。独裁者に支配された国を制圧してそれを民主国家に変えるために民主諸国の軍事力を使用することは、左派的視点から完全に擁護できるとわれわれは考える。侵攻に対するこの弁明は、とりわけ、ナポレオン、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東、アイゼンハワー、ニクソン、そしてブッシュによって、不当に使われてきたが、だからと言って、それは不当に使われるしかないというわけではない。

ローティの意見は理想主義的で「正しい」ものかもしれないが、チョムスキー的な視点からいえば、人がじっさいに政治に関わる際に、「正しさ」なんてほとんど問題にされていないじゃん、ということになるのではないかとおもう。政治が行われるときに重要になるのは、一望俯瞰することで見えてくる「正しさ」ではないし、政治とは、選択肢のなかで一体どれがベターなのか、ということを検討していく作業でしかない。だから、ローティのような主張はまちがってはいないけれど、実効性にかけるものだ、ということになるんじゃないか。

もっとも、いまアメリカのとっている選択とは、世界中の資源エネルギーの支配による権力・富の掌握へとまっすぐに向うだけのものであって、世界の大多数の人にとってベターな選択であるとはとてもいい難いものだ。そんなことは誰でも知っている。政治の「正しさ」なんてものについて議論することよりも、できるだけ大多数の人にとってのベターを探し、追求していくことの方が、きっとずっとたいせつだ。チョムスキーとかを読んでいると、そんなことをおもわされる。