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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『方丈記』/鴨長明

作品概要・所感

1212年頃に書かれたとされる一冊。激動の時代を生き抜いたミニマリスト、鴨長明による住居論といった趣の随筆である。

都を襲った5つの大災害を経て、生きづらいこの世につくづくうんざりした長明は、世俗を離れ、京都の外れは日野山に、方丈の庵を建てる。妻子も下僕も持たない彼は、ただひとりでそこに暮らしつつ、やりたいときにやりたいことをやり(琴を弾いたり歌を詠んだり)、やりたくないことはやらず(念仏をするのが億劫なときは勝手に休む)、辺りを散歩したり風景を眺めては季節の移ろいを感じたりする、そんな静かな生活を送るようになる…!

ただ、静かに暮らすことだけを考える

方丈の庵とは、その名のとおり、方丈(=一丈(約3メートル)四方)というサイズ感であって、5.5畳程度というところになる。それも、「柱や板の継ぎ目は掛け金で留めている。もし、気に入らないことがあったら、簡単によそへ引っ越せるようにという考えから、そのようにしている」、「運ぶものは、たった車二台で足りる。車の運び賃だけ払えば、他に費用はなにも要らない」という組み立て式ハウスだというところがおもしろい。長明がそれまでに暮らしていた家と比べると「百分の一にも及ばない」住居だということだが、人間、これだけのスペースがあれば十分だというわけだ。

長明がこのようなミニマルライフを志向するようになったのは、仏教的な修行心からというよりも、むしろ個人的な挫折と諦めによるところが大きいようだ。ひとたび災害が起これば、立派な家やモノも等しく無に帰す。親族との後継者争いに敗れ、出世の道も閉ざされた。歌人としても琵琶の弾き手としても一流だったはずが、肝心なところでは認められず、職も得られなかった。…そういった経験が積み重なった末に、世俗に深く関わったところで失うものも傷つくものも増えるばかりだ、と長明は考えるようになったらしい。

このような彼の発想については、現代人でも容易に共感することができるだろう。鎌倉時代でも令和でも、長明の隠遁のきっかけになった問題は、一切変わっていないのだ。あらゆるものは容易に失われるし、人間関係はままならず、自分の才能が社会で認められるかどうかは時の運にも大いに関わっている。だから、こういったものをそもそも必要最小限にしてしまえば、それに関しておもい悩むことだって最小限になるはず、という長明の考えは、いまでもそのまま通用するのだ。

やどかりは、小さな貝を好む。そのほうがよいと知っているのだ。みさごという鳥は荒磯に棲む。それは、人間を恐れるからだ。私もまたそれと同じだ。世間に近く住むということがどういうことか、どうなるか、すでに知っているから、もう何かを望むこともないし、あくせくすることもない。ただ、静かに暮らすことだけを考え、余計な心配のないことそのものを楽しんでいる。(p.45)
世界というものは、心の持ち方一つで変わる。もし、心が安らかな状態でないなら、象や馬や7つの宝があっても、なんの意味もないし、立派な宮殿や楼閣があっても、希望はない。いま、私は寂しい住まい、この一間だけの庵にいるけれど、自分ではここを気に入っている。都に出かけることがあって、そんなときは自分が落ちぶれたと恥じるとはいえ、帰宅し、ほっとして落ち着くと、他人が俗塵の中を走り回っていることが気の毒になる。(p.48)

こういうところなんて、わかるわーそうだよねー、と言いたくなってしまう。所詮、人間も人間の生み出すものも、卑小で有限な存在であって、そうであれば、何かを望んだりあくせくすることなどないではないか、って話である。(そして、そういうことは重々承知してはおりつつも、世間からの目を完全に無視することもまたできない自分がいる、という話でもあるわけだ。)

まあ、こんなふうに書いている長明も、本作の後半では、この「静かな暮らしを愛するということもひとつの煩悩/執心なのでは?」みたいなことを考えたりもするわけだが、そんな迷える感じも自由な随筆らしくておもしろい。

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ちなみに、この光文社古典新訳文庫版では、現代語訳と原典の両方が収められているので、簡単に読み比べができるようになっている。『方丈記』自体はごく短い随筆なので、気になった表現を読み比べてみるのもたのしくて良い。

たとえば、上記p.45の引用部なんかは、原典では、「寄居は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごはあらいそにゐる。すなはち人をおするゝがゆゑなり。われまたかくのごとし。事を知り、世を知れゝば、ねがはず、わしらず、たゞしづかなるを望とし、憂へ無きをたのしみとす。」となっている。やどかりって「寄居」(かむな)というのね、とか、やっぱり原文のリズム感は声に出して読みたくなる感じだわ、とか、いろいろ発見がある。

『ボブ・マーリー:ONE LOVE』

作品概要・所感

ボブ・マーリーの伝記映画。彼の音楽をそれなりに聴いたことがある人なら、きっとかなり楽しめる一作だったようにおもう。ボブ・マーリーやラスタファリズムについてある程度の前提知識がないと「?」となりそうなシーンも結構あるものの、Wikipedia等を5分くらい読んでざっくりと予習しておけば問題なく楽しめるはずだ。

最近の音楽ものの映画としては全体的にちょっと地味ではあったけれど――クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』とまではいかなくても、もう少し各ライブシーンが長くてもよかったかなとは感じた――ボブのファミリーやウェイラーズの面々は何しろ格好良いし、映像も美しく、レゲエらしい身体に響いてくるような重低音も素敵だった。

ボブ・マーリーの人生全体を順々に描いていくのではなく、ポイントを絞って描いているところが本作の特徴だろう。1976年に自宅を襲撃されてからイギリスに脱出→『Exodus』を引っ提げてのヨーロッパツアー→ガンが発覚するも治療拒否→78年、ジャマイカに帰還し平和コンサートへ、というまさにボブ・マーリーの歴史の重心とも言える部分をしっかりと描いた作品になっている。

ボブ・マーリーの「正史」

ボブの妻リタ・マーリー、子のジギー・マーリーとセデラ・マーリーが監修に加わり、ウェイラーズメンバーの実子たちが役者として出演している本作は、さまざまな有名エピソードに彩られたボブ・マーリーの人生の「正史」としての役割を担わされているのだろう。だからたとえば、ボブの浮気についてはほどほどの描かれ方にとどまっていたりする(…と言っても、当時のジャマイカにおける男女の力学や、ラスタの思想に基づく家族観がどのようなものであったのかを、現代日本人の自分が厳密に理解するのはそもそも難しそうなのだけれど)。

その一方で、ファミリーが関わっているからこそ映像化できたシーンや証言というのも多くあるだろう。彼らが認めた物語であるからこそ、観客はこれをボブ・マーリーのある意味「本当の姿」として素直に信頼して受け取ることができる。それこそが本作のいちばんの強みだと言っていいのではないか。

映画を見る前は、主演のキングズリー・ベン=アディルはボブを演じるにはシュッとし過ぎだし背も高過ぎではないかとおもっていたのだけれど、喋り方からちょっとした身体の動かし方まで、その再現度・憑依度の高さには素晴らしいものがあった。あ、これボブ・マーリーのインタビューとかライブ映像で見たことあるやつだ…!という既視感を覚えるくらいだった。さすがファミリーが認めた男である。

本作を見てからというもの、それまでボブ・マーリーの名前すら知っているか怪しいくらいだった妻が一日中ボブの曲を流しまくっており、おかげで最近はとくに『Exodus』を聴きまくっているのだが、やっぱり聴けば聴くほど名盤だな!と感心してしまう。各曲のクオリティが高いのはもちろん、アルバムトータルでの流れが素晴らし過ぎる。映画では、このアルバムから新たに参加するギタリスト、ジュニア・マーヴィンが初めて腕前を披露するシーンが描かれていて、そのグルーヴ感がめちゃくちゃ格好良かったのも印象的だった。

Exodus

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『人形の家』/ヘンリック・イプセン

作品概要・所感

ノルウェーの劇作家、イプセンの1879年作。銀行の頭取に就くことになった夫ヘルメルと、3人の子供たちとともに幸福な家庭を築いているかに見えた妻ノーラだったが、過去の秘密(夫の病気療養のための費用を、署名を偽造して借金していた)が暴露されそうになることをきっかけに、自らの置かれた境遇が「人形」に過ぎなかったのではないか、と考えるに至り、すべてを捨てて家を出ていく決意をする…!という物語。

家庭が舞台で登場人物たちも少なめ、物語はコンパクトかつはっきり言って地味なのだが、緊密な構成が素晴らしく、読めば読むほど、むちゃくちゃ良い作品だな…と感心させられてしまう一作だった。

人形ではなく、人間として生きる

ヘルメルはノーラを「ひばり」や「りす」と呼び、対等な人間というよりペットのように扱っている。ノーラもまた、その期待に応えるように、無知で可愛い妻という役割を素直に演じている。彼らの暮らす家は、互いに役割を演じ続けるだけの空虚な空間である。

ノーラが過去に犯した、署名の偽造という罪は、病の夫を救いたいという自己犠牲的な愛を動機としたものだ。だからこそ彼女は、自分が窮地に陥った際、夫もまた自分と同じように「僕が君の代わりに罰を受けよう」と言ってくれる、そんな愛の「奇跡」をどこかで信じているわけだ。だが、現実はまったくそのようにはならず、物語のクライマックスにおいて彼女の罪が露見するとき、ヘルメルが気にするのは、社会的な正しさや世間体、自身の立場や名誉といったものでしかない。

かくして、ノーラが求めていた、運命共同体としての夫と妻の「対等な関係」といったものは、ヘルメルの頭のなかには初めから存在すらしておらず、彼らふたりの価値観が根本的に断絶していることが露呈する。だからこそ、ノーラはヘルメルに対して発作的に強い怒りを見せるのではなく、むしろ、静かに確信して、家を出ていくことになる。「奇跡」を信じていた夢想家としてのノーラはこの断絶の認識とともに死に、代わりに、自ら思考する個人としてのノーラが誕生するわけだ。

彼女が放つ「あたしは、何よりもまず人間よ」という言葉は、単なるイキりや家父長制への反発というわけではない。社会的な役割(妻・母)以前に、自分自身の生き方を自分で選択する、自分で責任を持つという覚悟の表明なのである。だから本作は、安全でも正解でもないかもしれないけれど、それでも自分の生を自分の手に取り戻そうとする、ひとりの人間の決断を描いた物語だと言うことができるだろう。

そんなノーラの決断を加速させるのは、周囲の人物たちが「人形の家」に持ち込んでくる、生々しい真実である。たとえば、ランク医師は自身の死を目前にし、体裁を脱ぎ捨てて、親友の妻であるノーラに自らの想いを打ち明ける。また、かつてノーラと同じ署名偽造の罪で社会的な死を味わったクロクスタと、労働の苦しみをよく知るリンデ夫人が、互いの欠点や過去を抱えたまま、それでも共に生きることを選ぶ、という関係性は、役割を演じることで成立していたノーラ夫婦とは決定的に異なっている。それは、ノーラが求めた「対等な関係」が現実的に成立し得ることを示すものでもある。

物語は、ノーラがスーツケースひとつで家を出ていく、「扉の締まるどんという重い音(p.173)」によって幕を閉じる。彼女の決断が正しいかどうかはわからない。その先に待ち受けているのは、もしかすると破滅でしかないのかもしれない。それでも、彼女の姿からは、人間の生とはこうして引き受けるべきものなのではないかという、力強い主張が感じられるようにおもう。

ヘルメル 家も、夫も、子供も捨てて!世間が何と言うか、お前はお構いなしなんだ。
ノーラ そんなこと気にしちゃいられないわ。わかっているのは、こうしなくちゃならない、ってことだけよ。
ヘルメル 何というけしからん!お前は自分の、いちばん神聖な義務を放棄するんだぞ。
ノーラ 何があたしのいちばん神聖な義務だ、っておっしゃるの?
ヘルメル そんなことまで言わなくちゃならないのか!夫と子供たちに対する義務じゃないか?
ノーラ あたしには、同じように神聖な義務がほかにあるわ。
ヘルメル そんなものはない。どんな義務だ?
ノーラ あたし自身に対する義務よ。
ヘルメル お前は何よりまず妻で、母親だ。
ノーラ そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ。あなたと同じくらいにね、――少なくとも、そうなるように努めようとしているわ。そりゃ世間の人たちは、あなたに賛成するでしょう、トルヴァル、それに、本で言っているのも、そういうことよ。でも、あたしは、もう、世間の人の言うことや、本に書いてあることには信用がおけないの。自分自身でよく考えて、物事をはっきりさせるようにしなくちゃ。(p.164-165)

『シヴァ・ベイビー』

作品概要・所感

ユダヤ教のシヴァ(葬儀直後からはじまる喪の儀式)の一日を舞台に、女子大生ダニエルのアイデンティティが崩壊していくさまを描く。ダニエルはシヴァの場でシュガーダディ(パパ活相手)との関係をひた隠しにしながら、彼の妻や赤子、自身の元カノにまで遭遇し、親や親戚からのプレッシャーにさらされ、あれよあれよという間に追い詰められていってしまう…!

「パパ活女子、お葬式で修羅場。」という軽快なコピーからは到底想像できないくらい、しっかりと主人公の内面を抉り出した映画である。というか、内面を抉り出し過ぎているがために、人間ドラマであり、コメディでありながらも、若干ホラーの領域に踏み込みかけている感すらある。執拗に鳴り響く弦楽器の不協和音が、その感覚をさらに増幅させている。

近くで見れば悲劇、遠くから見れば喜劇

みんなが自分より素晴らしい人生を送っているように感じる、他人から見下されたくない、自立した大人になりたい、でもどうしたらいいかわからない、これから先の人生が恐い…。ダニエルの抱えるそんな息苦しさ、じんわり嫌な汗をかくような焦燥感が、全編とおしてこれでもかと描かれていく。

パニックを起こして自棄になったダニエルは、シヴァ中に数々のイタい行動を取っていってしまうわけだけれど、観客は「あちゃ〜」と思いつつも、彼女のいたたまれなさが痛いくらいに共有されているものだから、その感情、そのふるまいを突き放してしまうことができない。いや、そうしたくなる気持ち、わからんでもないよ…なんておもってしまったりするのだ。

そしてこの、ダニエルのふるまいを突き放せない感覚こそが、本作の奇妙なおかしさの源でもある。「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」と言ったのはチャップリンだが、まさにそれが体現されているのだ。ダニエルが陥った状況は半分くらいは自業自得なのだし、そこでの悪あがきはことごとく裏目に出てしまう。本人にとっては地獄でしかないシヴァの一日だが、少し離れた目線から見れば完全なコメディでしかない。

78分というコンパクトな尺ではあるものの、ダニエルの心理がとにかく濃密に描かれているので、没入感がものすごかった。映画が終わったときには「ようやく終わったぜ…!」と、厄介な親戚の集まりから解放されたときのような、ちょっとすっきりした気分になったりもしたのだった。

『センチメンタル・バリュー』

作品概要・所感

ノルウェーはオスロ。ノーラは才能ある舞台俳優だが、どこか精神的に不安定な日々を送っている。妹のアグネスは家庭を築き、夫と幼い息子と健やかに暮らしているように見える。母の葬儀の日、彼女たちが子供の頃に家を出ていって以来すっかり音沙汰なしになっていた映画監督の父、グスタヴがやって来る。15年振りの新作の主演をノーラに依頼したい、というのだ。いまなお過去の傷を抱えたままのノーラは、父の提案をにべもなく拒絶し、彼が差し出す脚本を見ることもしない。やがて、グスタヴはアメリカの若手スター俳優、レイチェルを連れて、かつてノーラたち家族が暮らしていた実家を舞台に、映画撮影を始めるのだが…!

上記のあらすじだけを見ても、家族の人間関係における葛藤を描いた物語だということ以外は、いったいどんな映画なのか伝わりにくいかもしれないけれど、脚本、映像、演出、演技、音楽と全方位的にクオリティが高く、そして自分好みの映画だった。

北欧の澄んだ空気感とカラーグレーディングの雰囲気、会話や画で説明し過ぎず余白を多めに残した構成や、いたずらに観客の感情を揺さぶろうとしない物語の描き方、倦怠や人生に対するメランコリックな感覚など、いかにもヨーロッパらしい、大人な作品に仕上がっていると言っていいだろう。

対話のなかで、家族の「わからなさ」を受け入れる

本作が描くのは、年齢を重ねること、孤独を感じながら生きること、何かを共有すること、どうしても共有不可能なこと、過ちを認めること、認められたいという想いとの折り合いの付け方…といった、複数の主題が重層的に絡み合った物語である。しかし、それらを貫く一本の軸になっているのは、やはりグスタヴとノーラというある意味似たもの同士の父娘の葛藤であるだろう。ふたりとも、映画や舞台といった物語を通してしか、自己をうまく表現することができない。そのようにしか生きられない、不器用さを抱えた人間なのだ。グスタヴが家族を捨てて家を出たのも、ノーラが舞台を恐怖して逃げ出したくなるのも、その根本にあるのは、似たような、自己を他者に曝け出すことから逃避したい、という衝動であるようにおもえる。

家族の葛藤を描いた映画であるからして、やはりエンディングではその葛藤について一定の解消や解決が見込まれるわけだけれど、本作の着地点はそう単純なものではない。「父が脚本に込めた想いを娘が感じ取り、父を赦すに至る」あるいは、「父の作った映画によって、家族を演じることしかできない娘が救われる」といった、物語や映画の力を安易に賛美するような結末にはなっていないのだ。そこが良かった。ふたりは全面的な理解や和解に至るわけではない。ラストシーンはひとまずの落としどころ、といったところだろう。だからこそ彼らは、まあこんなものだろうか?という具合に、おずおずと視線を交わし合うばかりなのだ。それでも、それまでの物語を辿ってきた観客としては、さしあたってはそれで十分ではないか、と感じられるようになっている。

彼らがそのような地点に至ることができるのは、自分自身では開示できないものを対話によって引き出してくれる人物の存在によるところが大きいだろう。レイチェルが自身の役と真剣に向き合っていくことで、グスタヴは図らずも自らを省みるようになっていく。アグネスはノーラの聴き手となって、ノーラ自身も十分に把握できていない感情を少しずつ引き出していく。映画全体を通して、そういった対話の連なりが繊細に描かれているのだ。

人はそれぞれ自身の主観でしか語ることができず、だからこそ他者との断絶というのはつねにある。しかし、対話のなかで主観と主観とをぶつけ合うことで、他者の異質さ、他者性というものをより深く認識していくことはできるだろう。本作の物語が誠実なものに感じられる理由のひとつは、登場人物の各々に、それぞれの立場、視点、価値観、感情があるのだということ、つまり他者の他者性を、「わからなさ」を、しっかりと描き出しているからではないかとおもう。家族だからといって簡単にわかり合えるものではないし、そのわからなさ、自分との違いを認めることこそが、他者の主体性を歓迎することではないか、というような、ポリフォニー的な感覚が作品全体に通底しているのだ。