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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『心コレクション』/植島啓司

作品概要・所感

古今の「名言」100個を集め、それらに対して宗教人類学者である植島がちょっとしたコメントをしていく、という一冊。ゲーテや易経の言葉もあれば、明石家さんまや叶恭子の言葉もある…といった具合で、バラエティに富んではいる。

しかし、他人の発言の一部を切り取って、それを虎の威のようにして自分の意見をひとことふたことだけ語る、ってスタイルはどうなんだろうか。XやThreadsのタイムラインでよく見かける、バズ狙いの構文に近いやり方だが、それで一冊の本を作るというのは、正直あまり格好良いものではないな、と感じた。まあ俺だって、他人の書いた本の感想と称して自分語りをしているようなところがあるのだから、人のことを言えた立場ではなく、だから余計に、そんな風に感じるのかもしれない。

たしかに「名言」が集まってはいるが…

いや、むしろ問題は本書のスタイルではなく、内容の方にあるのかもしれない。はっきり言って薄いのだ。軽めの自己啓発書のよう、というか。個人的に気に入った「名言」はあったものの、それらについても食い足りなさの方が強いようにおもう。たとえば、こんなところ。

イエスの33年の生涯のうち、
よく知られているのはたった9年間にすぎません。
だが、彼の沈黙の生活が栄光に満ちた生を準備したのです。
E・R・クルティウス

もっともつらくて意気消沈しているときこそ、その人にとって、もっとも実り多き時期なのではないか。人々の注目を浴びる華やかな時期は、そこで収穫したものをただ消費しているにすぎない。何かを成し遂げたいと思ったら、いつでも深い沈黙に入る準備が必要となる。
「わたしたちは美徳しか教えてこられなかった。
 悪徳も知って、
 初めてどちらかを選ぶことができるのではないでしょうか」
トリュフォー「恋のエチュード」

姉妹のひとりのセリフ。たしかに悪徳を知らない(ふりをする)人間のことは心から信用できない。そして、どちらも知らないと「生きる」ことの意味がつかめない。ということは、よく悪徳を知り尽くした人間のほうが魅力的に見えるということでもある。悪徳といっても、なにも反社会的なことを意味するわけではない。世間の常識や道徳とは寸法ちがいで、自分なりの規則にしたがって生きる人間に魅力を感じない人はいないだろう。いい悪いはまた別なのだ。
楽しもうと決心すれば、たいてい
いつでも楽しくできるものよ。
高畑勲監督「赤毛のアン」より

これは映画の宣伝パンフに載っていたもので、一見したところ平凡に感じられるかもしれないが、なかなかすぐれたコピーだと思う。ここで大事なことは、楽しくないことはいつでも遠慮なしにやってくるが、楽しいことは「決心しないと」やってこないというところにある。

このあたり、共感したり納得したり、ああそこから拾ってくるのねっておもしろく感じたりできる「名言」ではある。ただ、植島のコメントの方は、正直斬新な意見だとは言えないだろう。「名言」の内容をそのまま言い換えているだけでしかなかったり、わざわざ「名言」を引用してまで語るようなことだろうか、と感じられたりする。

まあこういう本であっても、「楽しもうと決心すれば」、楽しくできるものではあるのかもしれない。実際のところ、俺は「決心」する前に本書を読了してしまったわけだけれど。

『世界は終わらない』/チャールズ・シミック

作品概要・所感

チャールズ・シミックによる詩集。散文詩ということで、ちょっとした寓話や短い物語のように見えるものもあるのだが、その実態は、強烈なイメージ同士の衝突によって形作られている。

本書の冒頭で訳者の柴田元幸が書いているとおり、「豚やゴキブリのこと」、「豚のことと天使のことの両方」を書くという、捻くれていながらもキャッチーなところが特徴だと言えるだろう。シミックの作風は、「ホームスパン(手作りの)・シュルレアリスム」と呼ばれることがあるらしいが、本書にも、どこかキッチュだったり素朴だったりする、独特なシュールさを持った詩たちが収められている。

悪夢的なユーモア・静謐さと不穏さ

ボリス・ヴィアンを彷彿とさせる、悪夢的なユーモア

読み進めていくなかでまず連想したのは、ボリス・ヴィアンの作品群だった。シュールさのムードがなんだか似ているのだ。悪夢的でありつつユーモラスで、淡々とした語り口の裏に、激しさや残酷さが秘められている。主観が世界を侵食していったり、形而上学的なものが世俗のレベルへと引きずり下ろされていく感覚なんかも、かなり近しいようにおもえる。

例えば、こんな詩たち。

わが家はひどく貧しかったので 僕がネズミ取りの
エサの代わりを務めなくてはならなかった。地下室に
たった一人でいると、みんなが上の階で歩きまわったり、ベッドで
せわしなく寝返りを打っているのが聞こえた。「暗い、忌まわしい
日々だよ」とネズミは僕の耳をもぞもぞ齧りながら言った。何年も
経った。僕の母はネコの毛の襟巻きをつけて その火花が
地下室を照らすまで それを撫でつづけた。(p.38)

身体の道具化、時間の歪み、貧困のファンタジー化、静かな狂気といった要素が、ちょうど『うたかたの日々』っぽくはないだろうか。

ロシア人の人食い人は イギリス人より たちが悪いか?
もちろん。イギリス人は足しか食べないが、ロシア
人は魂を食う。「魂はまぼろしだよ」と僕はアンナ・
アレクサンドローヴナに言ったが、彼女は涼しい顔で
僕の魂を食べつづけた。
「特上の鴨のコンフィみたいかい、それとも いまだ生息地の
塩水に浸った ホンビノスガイの光り輝く稚貝のようかい?」と僕は
訊ねた。でも彼女はただお腹をさすって、テーブルの向こう側から
僕に微笑むだけだった。(p.66)

「魂」を胃袋で消化する、この不敬で冒涜的なムードもなかなかにヴィアン的だ。

ヴィアンと言えばジャズだが、シミックもまた、「ジャズが僕をアメリカ人に、そして詩人にした」(p.16)と語るほどジャズを愛した人だったらしい。ただし、同じジャズとはいえ、ふたりの嗜好はかなり異なっている。ヴィアンが好んだのはデューク・エリントンであり、シミックの心を捉えたのはセロニアス・モンクだったという。

エリントンの音楽に生を謳歌するような身体性があるとすれば、モンクのジャズには生にうまく馴染めないような思考のぎこちなさが刻まれていると言えるだろうけれど、そんな対比をヴィアンとシミックの作品の感触に重ねてみれば、両者の方向性は似ているようでやはり異なってもいるだろう。ヴィアンの作品が青春の閃光のような鋭さを持った、パステルカラーの悪夢だとするならば、シミックの詩はさしずめ、暗闇に慣れてしまった目が捉える、粒子の粗いモノクロームの悪夢といったところだろうか。シミックの詩は、ユーモラスではありつつも、諦念や倦怠感が折り重なっているようなところがあるのだ。

ヴォルフガング・ティルマンズ的な、静謐と不穏

もうひとつ、シミックの詩を読んでいて想起したのは、ヴォルフガング・ティルマンズの静物写真の雰囲気だった。この詩なんて、なんともティルマンズ味があるようにおもえる。

私はどこよりも小さい
劇場で演じた

窓台の上で
極悪非道の砂利たちが、
ぽつんとひとつ在る
白いパン屑を囲んでいる。(p.46)

ティルマンズは、窓際のコップや食べ残し、何気ない布のしわなどを、まるで世界の縮図であるかのようなムードでもって撮ることがあるが、シミックのこの詩からもそんな雰囲気が感じられる。極端にミクロな視点から、窓台というごく小さな空間を「劇場」と呼び、砂利を「極悪非道」と形容する感覚は、何でもない光景を意味ありげに切り出してみせるティルマンズとどこか重なってみえる。

もう少し言えば、ティルマンズの写真は、ただの静物であっても、孤独や暴力といったものが立ち上がってくる気配を感じさせることがあるだろう。その静謐さと不穏さを端的にシニカルに言葉にしたならば、この詩のようになったりするのかも…などとおもえたりもする。

もちろん、両者は世代も表現媒体もまったく異なるわけで、安易に比較対照できるものではないだろう。ただ、ティルマンズの何でもないものを何でもないまま差し出してみせる態度――それでいて、何か意味深いものであるようにおもわせる態度――というのは、シミックの「ホームスパン・シュルレアリスム」的な作風と響き合うものがあるような感じがしたのだった。

 *

本作に収められているシミックの詩はいずれもごく短いものだが、ふわふわと軽い感じはしない。たしかにユーモラスだったりキッチュだったりはするし、実際非常に読みやすいのだが、その奥底には、何かずしりとした重さのようなものがある。それは、亡命詩人、歴史の孤児としての彼の記憶、アイデンティティに結びついているものでもあるのだろう。

ただ、シミックがそれを単なるシリアスな悲劇として語ることはない。凄惨な現実をどこかおもしろがってしまうような、ちょっと不謹慎で強靭な生命力、とでも言ったらいいだろうか。その力こそが、彼の詩に、単なるシュールなイメージの飛躍を超えた、独自のリアリティを付与しているようにおもう。

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『愛しあう』/ジャン=フィリップ・トゥーサン

作品概要・所感

日本を舞台にした、トゥーサンの2002年作。別れることを決めているフランス人男女カップルの物語だ。タイトルは『愛しあう』(Faire L'amour)つまりMaking Loveということだけれど、扱われているのは愛の終わりの地点における心の機微や倦怠感といったものである。

トゥーサンというと、『浴室』に代表されるような、ひねくれてドライでユーモラスな作風の作家という印象だったけれど、本作は全体に沈んだトーンになっていて、静謐さのようなものすら感じられる。いわゆるトゥーサン的な軽やかなムードとは、かなり雰囲気を異にしているのだ。

もっとも、作品の組み立て方については従来通りとも言える。事情や心情の説明といったものはあくまでも最低限にとどめられ、ミニマルな断章形式でさまざまな情景が少しずつ描写されていく。主人公の「ぼく」は恋人のマリーとともに、東京へやって来る。マリーはファッションデザイナーで、日本でコレクションを行うのだが、「ぼく」はその付き添いというわけだ。ふたりは、ふたりの関係の終わりを感じ取ってはいるが、きっぱりと別れることもできないでいる。「ぼく」はマリーとチェックインしたホテルの屋上プールで泳いだり、雪の降りしきる新宿のネオン街をさまよったり、路地裏の安食堂に入ったりする。マリーの仕事の現場に同席したり、ふとしたおもいつきで京都に向かってみたりもする…。

愛の終わりのウェットな倦怠感

主人公の動きがただの行き当たりばったりにしか見えない、という点は他のトゥーサン作品と同様だが、本作の場合はその彷徨を、愛の終わりに伴うもやもやした感情に結びついたものとして素直に読むことができる。そのため、物語全体の輪郭も比較的クリアなものになっていると言っていいだろう。

トゥーサンは、「ぼく」の所在なさげな姿と内面とを繊細かつ美しい筆致で描き出していく。「ぼく」の態度は、日本というある種エキゾチックで記号的な舞台と相まって、ますます地に足がつかないふわふわとしたものに見える。チープでキッチュなシチュエーションが続いていくのだが、それこそが別れに伴う不安定な感情をいっそう切実なものにしていくのだ。(そして、感情が切実になればなるほどに、シチュエーションはいっそうチープでキッチュになっていくようでもある。)

ぼくらは人ごみの中を足並みを揃えて歩き続け、一見一緒に歩いているような格好で、お揃いの白いウールのソックスを履いてサンダルをつっかけ、くるぶしのところの馬鹿げた赤と青のラインもまったく同じ、しかしながらめいめいは相手に対して底意地の悪い考えをめぐらせつつ、さきほどの出来事から受けた苦しみに耐えているのだった。互いに何も言わなかったーーもう話をしようとさえしなかった。ときどきぼくは彼女のほうを盗み見た。だれが悪かったかなど問題ではなかったし、きっとどちらも悪くはなかったのだろう。愛しあっていながら、ぼくらはもう相手に我慢がならなかった。いまやぼくらの恋においては、全体としては相変わらずお互いに対し苦痛よりも喜びを与えているとしても、しかしその少しばかり苦痛がもはやぼくらにとっては耐えがたいという、そんな状況が生じていた。(p.79)

全体的にしっかりウェットで、メランコリックでもあるのに、決してシリアス過ぎたり重過ぎたりはしない、硬質で独特な浮遊感のある文体は、やはりトゥーサンという感じだ。恋愛の終わりのこのだらだらした空気、たしかにかつて経験したことがあるよな…などとおもいつつ読んだ。完全に終わりだと互いにわかっているのにどうにも別れがたいという、あの決着の先延ばし感、あるいは疲労感。

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『まなの本棚』/芦田愛菜

作品概要・所感

『果てしなきスカーレット』での芦田愛菜の演技が印象深かったので、図書館で借りて読んでみた。本書は、芦田が15歳の時に出版された一冊。彼女の「本棚」から紹介されていく本のラインナップは、小説が中心ではあるものの、古典から新刊までかなり幅広く、いかにも読書家のそれという感じになっている。

芦田といえば一昔前ならば、いわゆる「天才子役」の優等生、もう少し最近ならば「芦田プロ」と呼ばれるような、才色兼備の聡明で知性的な俳優、という印象が強い。とにかく、「しっかりしている」ことにかけては人後に落ちないのが芦田愛菜、というイメージである。

ただ、本書から見えてきたのは、そういった才媛のムードではなく、ごく等身大の本好きの女の子の姿だった。「年間100冊以上読む」とか、「中3くらいで村上春樹に出会ってハマる」とか、いや俺もまさにそうだったよ〜めっちゃわかるわ〜などとついつい言いたくなってしまう。少し背伸びしつつも、水を飲むように物語を読みまくり、それが吸収されまくっていく、十代の本好きらしさとでも言ったらいいだろうか、そういう感覚が詰まっているのだ。たとえば、こんなところ。

小さい頃から、本は生活の中に入ってるものだったので、もはや、読書をすることは、歯磨きをしたり、お風呂に入ったりするのと同じぐらい、私にとっては日常の一部です。
ちょっとした空き時間があれば、いつも「あぁ、あの本の続きが読みたいなぁ〜」と思ってしまいます。(p.26)
本の世界に入り込んでいると、あっという間に時間が経ってしまいます。
「もうちょっとだけ……もうちょっとだけ……」と読み続けていると、数十分も過ぎていることも!
この前も、歯を磨きながら本を読んでいたら、読んでいた本がおもしろすぎて止まらなくて、20分間ぐらいずーっと歯を磨き続けていたみたいで、母に「いつまで歯を磨いているの!?」と驚かれてしまいました。(p.27)

そういえば、俺も中学生の頃、自室の椅子の上にお腹を載せ、床に本を置いて読む、というわけのわからない姿勢のまま(目の前に机があるのに!)、気がついたら数時間も経っていた、みたいなことをよくやっていたっけ…などとおもい出したりもしたのだった。

「たくさんの本を読んでいるから」知性的なのではない

本書のなかに、山中伸弥教授との対談が収録されているのだが、そこで芦田は山中に対して、「人生って何ですか?」というどストレートな問いを投げかけている。なかなかできる質問ではない。(というか、俺はこんな素晴らしい質問をする能力はどう考えても持っていない。)こういうところには、彼女の凄さが端的に表れているという感じがする。

山中は芦田の問いを受け、基本的に人生においては何でも自分で決めることができるけれど、決められないことがひとつある、と返す。

山中先生:いちばん自分ではどうしようもなくて、決められないことは「この世の中に生まれてきたこと」なんですよ。こればかりは、完全に自分ではどうしようもありません。僕たちはこの世に生をいただいたわけで選択肢はないんです。生が尽きるまで生きるしかなくて、それだったら楽しく生きようということだと思うんです。でも、この楽しいというのが難しくて決して楽ではない。どうしたら自分が楽しいと思えるのかを探すしかないんですね。(p.116)
多くの人は、「自分が何をしたいのか」「何をしたら夢中になれるのか」を見つけるのに時間がかかります。その夢中になれるものが見つかってそれを仕事にできたら、生きていてとても楽しいと思います。
あと、多くの場合、自分の人生が楽しいと感じるために大切なのは「どこかで誰かのためになっている」という気持ちが持てるものであること。この気持ちは、すごく大切だと思います。(p.117)

山中の回答は、それなりに人生経験を積んだ大人からすれば、まあ正統的なものだと言えるだろう。しかし、この答えをもらったからといって、「人生とは何か」という問いそのものが終わるわけではない。この回答はあくまでひとつの指針、一般論であって、具体的に個人が「どう生きるか」は死ぬまで解き続けなければならない課題であることに変わりはないのだ。

15歳の芦田が、このような答えのない問いを真正面から大人にぶつけ、その回答を受け取ろうとする。こういった態度、ふるまいこそが、彼女が「しっかりしている」所以なのではないか。別の言い方をするならば、芦田愛菜は幼い頃からたくさんの本を読んでいるから知性的、なのではない。そうではなくて、本を読むなかで生まれた疑問を問いとして立ち上げ、そうした問いに向き合っていこうとする誠実さが芦田にはあり、それこそが、彼女の姿や発言に知性を感じさせるのではないか。何だかそんなことをおもわされたのだった。

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『ためらい』/ジャン=フィリップ・トゥーサン

作品概要・所感

ある島の海辺の村へ、友人の家を訪れるために、ベビーカーに息子を乗せて主人公の「ぼく」がやって来る。だが、「ぼく」は「何やら謎めいた不安」に引き止められ、友人に会いに行くのをためらってばかりいる。行くべきか、行かざるべきか、と逡巡するうち、あの車に彼が乗っていたのではないか、あの窓から彼はこちらを見ていたのではないか、この痕跡は彼の残したものに決まっている、このカメラで彼はぼくの写真を撮っていたのに違いない、などと妄想が広がっていくのだが…!

「ぼく」は周囲の世界のありとあらゆる事象からできごとや意味、暗号や予兆を見出そうとするが、それはあくまでも彼の妄想でしかなく、世界の側が彼に応えることはない。何かが起こりそうな気配、不穏な雰囲気が横溢しているのにも関わらず、その何かは最後まで何も起こらない。また、全編が一人称で書かれていて、~のようだ、~と考えた、といった主人公の内面を直接的に表す文章は十分にあるのだけれど、彼がそう感じたり考えたりするところの理由については、まったく触れられることがない。

止まらない妄想と「ためらい」の連鎖

たとえば「ぼく」はビアッジ家を訪問するために村にやって来たはずなのだが、一向にビアッジに会いに行こうとしないし、どうやら会いに行くこと自体が彼にとってはなかなかに難しいことであるらしい(詳細についてはいっさいわからない)。それでいて、彼はビアッジ家の郵便ポストを勝手に開いては、そこにあった4通の手紙を持ち帰ってしまったりもする。とにかく行動の動機なるものについては――そんなものがあるとすれば、だが――明らかにされないのだ。

だから読者は、彼の振る舞いを、無軌道な行き当たりばったりと受け取ることもできれば、逆にそこに何らかの切実な思惑や隠された論理を読み込もうとすることもできてしまう。その判断を宙吊りにされたまま、読者は「ぼく」の奇妙な歩みに付き合わされることになるわけだ。

~かも知れず、~であるならば、~に違いない、と語り手の妄想だけでどんどん文章が書かれていってしまう――どう考えてもただのおもいつきなのに、なぜか「ぼく」はそれに瞬時に飛びつき、そうに決まってる、と確信してしまうのだ――ところは、どこかカフカ的にも感じられる。つまり、こちらからは知り得ないようなルールというか決まり、定めのようなものがあって、主人公の周囲の世界はそれに従って動いているのではないか、というような。

また、何でそんなことするの?と読者におもわせてくる感じ、ミニマルで無表情な感じは、アキ・カウリスマキの映画のようでもある。「ぼく」は、ビアッジに会うという本来の目的とは裏腹に、自分の妄想が勝手に見出した予兆や不安を裏付けるために、ちぐはぐな補完作業としての行動を積み重ねていく。そんな加速し続ける思考の飛躍そのものが、本作を牽引する実質的なエンジンになっているのだ。

ホテルに戻り、道に面したガレージの、金網張りの小さな門を乗り越えて、音を立てずにテラスに滑り下りた。出てくるときに、食堂のガラス戸を少し開けたままにしておいたのだが、さて入ろうとして、外に出ているあいだにガラス戸が誰かの手で閉められてしまっているのに気がついた。外側からガラスに手を当てて何とか開けようとするのだが、どうしても戸は動かず、ぼくは突然恐怖に襲われ、ぼくが外に出ていることを知らない人物が、ガラス戸を閉めてしまったのではないかという考えが一瞬頭に浮かんだが、しかしまた、ホテル外の誰かが、ぼくを入れなくしようとしてわざと閉めたのかもしれず、つまりその人物は村のどこかにいて、ぼくが港にいるあいだ、こっそり見張っていたのであり、今だってどこかからぼくの様子を窺っているのかもしれず、おそらくは夜ごと外出するのがその人物の習慣で、たまたまここいく晩かのあいだに、まさに丁度、今夜照っているのと同じ月光の下、今夜と変わらぬ黒雲が空を滑っていく中、突堤を歩いているぼくの姿を目に留めていて、今晩はぼくが外に出るのを見定めたうえで、ガラス戸を閉めに来て入れないようにしてしまい、それどころかまさにこの瞬間も、闇の中、テラスの木陰の、ぼくから数メートルのところにじっとたたずんでいるのだと思われた。ビアッジだ、その人物とは、ビアッジに違いない。(p.55-56)

妄想が飛躍しまくっていき、最終的に無根拠な断定に至るこの部分なんて、「ビアッジだ、その人物とは、ビアッジに違いない。」という決め台詞に向かって駆け上がっていく、謎の高揚感のようなものすら感じられる。「ぼく」はひとりで盛り上がりまくってしまっているのだ。

ビアッジ家の人たちはきっともう家に戻っているはずだが、時間がたつにつれて、そしてこうして部屋の窓際でじっとしたまま彼らに会いに行くのを先延ばしにしているうちに少しずつわかってきたのは、村に来ているということを知らせに行くという、いとも簡単としか思えない決心をするのに、今晩も相変わらずこれほどの困難を感じているのは、何と言っても最初の日に彼らに会いに行こうとして感じた、いちばん初めのためらいのせいに違いなく、そのためらいをぼくはいまだに打ち破ることができずにいて、しかもためらいは時とともに和らぐどころか、実際には日増しに強まっていき、ぼくが彼らの郵便箱から勝手に手紙を抜き取ったあの日を境として、完全に凝固してしまっているのであって、ぼくが彼らに会いに行くことは今やこれまでよりもはるかに困難になっているのだ。(p.123-124)

この部分も、ためらいの理由について詳細に語りすぎていて、何回読んでも可笑しい。何を言ってるんだ「ぼく」は、って感じである。

そういうわけで、本作は、いわゆる小説的な決まりごと、紋切り型、筋があり展開があり、登場する人物や物事にはそれぞれに相応の役割があり…といったものをことごとく無視した作品になっている。ミステリ的、サスペンス的な雰囲気だけは醸し出しつつも、その実何でもない、何も起こらない、という小説になっているのだ。デビュー作の『浴室』と比べても、何も起こらないっぷりはさらにグレードアップしている。

そういった決まりごとを無視しているにも関わらず、たしかに小説として成立しているのは、本作が情景やら思考やらを執拗なまでに細かく描写し続けることによって構成されているからだろう。何もないところにできごとや意味を無理矢理見出してしまう「ぼく」の滑稽さを描くことで、トゥーサンは小説というフィクションの形式そのものを笑っているようでもある。

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