Show Your Hand!!

本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『本を書く』/アニー・ディラード

作品概要・所感

ディラードが「本を書く」際の自身の心的状況を見つめ、その様相や移ろいを言語化してみせている一冊。日本語版タイトルはどこかノウハウ本的な雰囲気を感じさせるものだけれど、原題は”The Writing Life”。書くということは作家の人生においてどのようなものであり得るのか、作家はどのように書くべきなのか、といったことがエッセイの形式で語られている。切り詰められた文体が美しく、コンパクトだけれどぎゅっと内容の詰まった、濃密な一冊だ。

あなたは、あなた自身の驚きに、声を与えるために、存在する

執筆を行う場所の話や周囲の人々との交流のエピソードがぱらぱらと綴られていくなかで、どの話もごく自然に、書くということに関するディラードの考えや態度へと繋がっていく。各エピソードは、書くことに関するメタファーのように読むことができるのだが、単に自らの意見を補強するためにメタファーを利用しているわけではなくて、ディラードの人生においては、もはや書くこととは生きること、生きることとは書くこと、になっているのだ。

とくに気に入った文章を引用しておく。

人間の特別な性癖――ものごとに夢中になること――について書かれたものが、なぜないのだろう。他のだれからも理解されない自分だけが夢中になるものについて書かれたものが。その答えは、それこそまさに、あなたが書くテーマだからだ。なぜかはわからないが、あなたが興味をそそられるものがある。書物で読んだことがないので、説明するのがむずかしい、と、そこから始めるのだ。あなたはそのことに、あなた自身の驚きに、声を与えるために、存在するのだ。(p.110)

人はなぜ書くのか?ということに対する、じつに明快な回答であるような気がする。なぜか気になるが、説明するのが難しい、そんなものごとや感情を言葉にし、声を与えること、まさにそのためにあなたは存在するのだ、と。このわずか数センテンスのなかで、書くことと生きることとが、ごく自然に、信じられないくらいスムーズに、結びつけられている。

『氷』/アンナ・カヴァン

作品概要・所感

1967年に出版され、アンナ・カヴァンの生前最後の長編小説となった一作。物語の舞台は、氷によってすべてが覆われ、氷河期が訪れようとしている終末世界。「少女」をひたすら追い求める「私」による、欲望や妄想や幻想がごちゃまぜになったモノローグで物語が語られていく。

SF、実験小説、心理スリラー、黙示録もの…そのいずれとでも言えそうだが、しかしいずれのジャンルにも収まりきらない、かなり独特な質感をもった作品だと言っていいだろう。

狂気に満ちたドラッギー過ぎる語り

『氷』において最も印象的なのは、その語りの異様さだろう。「私」の語りは「信頼できない語り手」などというレベルではなく、もはや現実との回路が完全に溶解、混濁してしまっており、もうとにかくひたすらにドラッギーなのである。ある場面で「少女」を追いかけていたかとおもえば、次の瞬間にはすでに彼女を捕らえた後のように語っている。あるいは、「少女」の姿を幻視していたかとおもえば、それがみるみる間に氷の世界に埋もれてしまったりする。現実の出来事を語っていたとおもっていたら、気づけば妄想の中に入り込み、幻想の世界を彷徨っていたりする。

この語りの性質について、簡単に分類してみると以下のようになるだろうか。

  • 論理性や因果関係の放棄:通常の小説にあるような論理的展開や出来事の連動が放棄されている(そのため、読者はまるで先のストーリーを予想することができない)

  • 時間と空間の跳躍:場面転換が唐突に起こり、説明なく物語が飛躍する(読者は、え、いままでの話はどこへ?もしかして幻想だった?いや、それともこっちが幻想?などと混乱されられることになる)

  • 現実と幻想の境の消失:「私」の目の前の風景が、突如として幻想や妄想へと変化する(読者には、いつから「私」が幻想/妄想について語り始めているのかもよくわからない)

…要するに、ただ全体の方向性だけが決められていて、あとは随時イメージされた描写がその場その場でなされていく、という感じなのだ。だから読者は、ひたすら「私」の語りに振り回され続ける他ない。説明的なところなど一ミリもない、オブセッションに満ちたドラッギーな語りが生み出すイメージの連鎖、それが『氷』なのである。

しかし、少女は執拗に、無垢とほど遠い想念で私の心を乱しつづけた。少女の顔がとりついて離れない。ゆるやかなカーブを描く長いまつげ、おずおずとした魅惑的なほほえみ。次いで、私が意のままに作り出せる様々な表情が浮かぶ。ほほえみが不意に傷ついた表情に変わり、たちまち怯えに、涙に移行してしまう。この誘惑の強さに私は動揺する。振り下ろされる死刑執行人の黒い腕、少女の手首をつかむ私の両手……この夢が現実に変わるかもしれないことが恐ろしい……少女の内にある何かが、彼女を犠牲者にすることを要求する。こうして、少女は私の夢を忌まわしいものに変容させ、自分では望んでもいない暗い世界の探索へ私を導いていく。今ではもう私たちのどちらが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。(p.120)

この特殊すぎるモノローグによって、読者は「私」の狂気の中へと引き摺り込まれていくことになる。読者は「私」の視点を通してしか世界を見ることができず、その視点自体が歪んでいることは自覚しながらも、他に頼るべき視点を持てないのだ。そういう意味で、本作を読むことは、氷の上を恐る恐る歩くようなものだとも言えるだろう。足元には底知れぬ闇が広がり、いつ氷が割れて飲み込まれてしまうか分からない、という不安感が常に付きまとってくるのだ。

氷を止める手だてはどこにもない

そのような、全編に満ちた不安感、迷宮のなかを彷徨っているようなあてのない感じはカフカの長編を読んでいるときの感覚にも少し似ている。カフカの迷宮が外部の不条理なシステムによって構築されているものだとすると、本作の迷宮は凍てついた執着心が内側から作り出した、出口のない精神世界だと言えるだろう。何かを追い求めているが、それが手に入る瞬間は決して訪れない。あるいは、手に入ったかとおもえば、それがまるで幻影だったかのように消え去ってしまう。この堂々巡り感、虚無感が、作品全体に独特の浮遊感、落ち着かなさをもたらしている。

終末的な世界観、閉塞感という意味では冷戦期のSFらしいムードもある。どこまでも凍てつき、何もかもが死に絶えていく世界のイメージは、語り手の精神世界とも直接に結びついている。(「少女」は、血の通った一人の人間というより、「私」の衝動を反射する鏡、ほとんど実体を持たないシンボルのような存在として扱われている。)その心理の冷たさと、物理的な世界の凍結はそのままシンクロしているだろう。

氷は海にも山にも妨げられることなく、日一日と地球の局面をひそやかに這い進んでくる。急ぎもせず、足踏みすることもなく、着実なペースで少しずつ前進し、わずかな痕跡も残さずに町々を消滅させ、燃えたぎる溶岩を噴出していた噴火口を埋めていく。この氷を止める手だてはどこにもない。非情な秩序のもとに行軍し、その進路にあるすべてを倒壊させ壊滅させ跡形もなく消し去っていく巨大な軍団を押しとどめることは誰にもできない。(p.150)

制御不能な氷の進軍とともに、ちょっと他では見られないような、異様でダークで狂っていて、それでいてなぜかまったくウェットではなく、とにかくひたすら寒すぎる世界の終わりのイメージが描き出されていく。基本的に不気味ではありつつも、どこかに美しさも感じられる。読んでいる間ずっと、寒気と陶酔が入り混じったような感覚がまとわりついてくる、なかなかに奇妙な作品である。

『この本を盗む者は』

作品概要・所感

NHK Eテレで放送されそうな雰囲気の、ヘルシーで王道なアニメ映画、という印象の一作。

書物の町、読長町に暮らす御倉深冬は高校1年生。巨大な書庫である御倉館を代々管理する一家の娘だが、厳しかった祖母の記憶もあり、本嫌いでいる。御倉館の存在は町でも有名で、商店街を歩けば、御倉の娘として声をかけられまくる毎日である。そんなある日、御倉館から何者かの手によって本が盗まれたことにより、「ブックカース」なる呪いが発動、町全体が物語の世界に飲み込まれてしまう。「呪いを解く鍵は物語のなかにある」と断言する不思議な少女、真白に導かれるようにして、深冬は町を救うべく、本泥棒を探す旅に出るのだが…!

「児童文学的」な、安心設計の物語

「本」(=小説)をモチーフにしたストーリーがテンポ良く展開していき、物語の拡がりを適度に感じさせつつも、内容自体は小学生中高学年くらいの子供でも無理なく理解できる範囲に収まっている。その塩梅がうまいなとおもった。先日記事を書いた『果てしなきスカーレット』が「YA文学的」な鋭さと粗さを持つ作品なら、本作は明らかに「児童文学的」でウェルメイド、尖った部分が削り取られたタイプの作品だということができるだろう。

主人公の深冬は、自分が何者であるかとか、この世界でどう生きるべきかといった葛藤にさらされることがほとんどない。物語はジェットコースターのように進行していくのだが、その土台となる感情や動機は終始シンプルで、観客が置いてきぼりになるようなこともないのだ。そういう意味では、深冬が中学生や、もしかしたら小学生であってもこの物語は成立し得たのかも?という感じもした。

全体のテンポが重視されていることと、85分というタイトな上映時間とが相まって、作品にはある種のダイジェスト感が漂っている。それは構成の面だけでなく、内容についても同様だ。深冬と真白は、マジックリアリズム、ハードボイルド、スチームパンクといった各ジャンルの典型的なムードが与えられた物語世界を巡り、本泥棒を追っていくのだが、そこで展開されるエピソードはいずれもどこか既視感のあるものばかりなのだ。これは尺の都合によるものとも、あるいは物語そのもののシンプルさゆえとも考えることはできそうだが、少なくとも、ステレオタイプな話を無闇に引き伸ばされても退屈なのは間違いないだろう。多少の駆け足感というリスクを承知の上で、深追いせずにテンポを優先するという選択は、本作においてはむしろ正解だったようにおもえた。

キャラクターの描写もまた、物語のスピードを損なわないよう最小限に留められている印象だったが、深冬と真白のガール・ミーツ・ガール的な関係性は、コンパクトながらも丁寧に扱われていたのが良かった。真白が深冬にやたらと懐いている理由を含め、その多くはいわゆる「お決まりのパターン」に則っている。しかし、ベタにはベタなりの良さがあるのだ。深冬の脱ぎ散らかした靴を真似して、真白がわざわざ自分の靴も脱ぎ散らかし直す場面などは、その最たるものだろう。ひたすらベタではあるが、だからこそちゃんと可愛いのだ。

 *

そういうわけで、本作は「児童文学的」な定番の物語を丁寧に形にした、正統派のアニメ映画だと言っていいだろう。安心して子供に見せられる作品、という言い方でもいいかもしれない。すでに書いてきたように、ストーリーやキャラクターに新鮮味はほとんどないのだが、アニメーションは美しく、スピード感もあるので、最後まで飽きずに楽しむことができる。

ただその分、ある程度の物語を摂取してきた大人の鑑賞体験としては、小綺麗にまとまったウェルメイドな作品、という印象に留まってしまう面もあるだろう。というか、少なくとも俺自身にはそう感じられた。原作ありきの作品ということで、それなりの制約があったのだろうけれど、このどこかそつのない雰囲気、優等生的な雰囲気を突き破るような、本作ならではの野心や挑戦みたいなものを、もう少し見てみたい気もしたのだった。

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『パターン・レコグニション』/ウィリアム・ギブスン

作品概要・所感

ギブスンの2003年作。7作目の長編である。『ニューロマンサー』以降のいわゆるサイバーパンク的な舞台装置からは離れて、現実世界の2002年――9.11同時多発テロの翌年――を舞台にしているところが大きな特徴だ。9.11テロの前後で世界がどのように変化したのか、残された人々はこの世界をどのように生きるのか、といった問いかけが内包された作品と言うこともできるだろう。

主人公のケイス・ポラードは、タイトルのとおり特殊なパターン認識能力を持つアメリカ人女性で、マーケティングや文化的トレンドを扱う仕事に就いている。企業のロゴやトレードマークに対して重度のアレルギーを持っているのだが、逆に、どんなロゴが成功するのか、これからどんなストリートファッションが流行るのか、などをひと目で見極めることができるのだ。彼女は、インターネットに段階的に公開されている、「フッテージ」と呼ばれる謎の動画――ごく短い断片でストーリー性もないけれど、どういうわけか見る者に完璧な印象を残す、という異様な動画――に魅了されており、インターネット上のフォーラムで、最新の「フッテージ」の内容について日夜激論を交わしたりもしている。そんななか、巨大広告代理店ブルー・アント社からの依頼でロンドンにやって来た彼女は、同社のボス、ヒュベアトス・ビゲンドから「フッテージ」の作者を探し出すよう、調査を依頼されるのだが…!

ギブスンらしくSF的なガジェットはいくつか登場するものの、基本的に現代が舞台ということで、それまでの作品たちと比べるとかなり読みやすい一冊になっている。サイバーパンクの物語と比べると、読者が想像力によって補わなければならない画の量がずっと少なくなっているのだ。もっとも、主人公の職業柄、企業や商品の固有名詞は大量に登場してくるので、そのあたりの書き込みの細密さ、しつこさからギブスンらしさというのはしっかりと感じられるだろう。

流行の服飾品がならんだソーホーの専門店のショーウィンドーに映るケイスの会議用CPUは、フルーツ・オブ・ザ・ルームの新品のTシャツと、バズ・リクソンの黒のMA-1フライトジャケット、タルサのスリフトで買った無印の黒のスカート、ピラティス用の黒のレギンス、原宿の女子学生用の黒靴。ハンドバッグの代用品は、イーベイで買った東ドイツの黒いラミネート封筒だ――秘密警察(シュタージ)官給品の本物ではなくても、かなりいい線までいっている。(p.15)
CPU。ケイス・ポラード・ユニットの略。それはデミアンが彼女の服装を評してつけた名称だ。CPUは黒か白、もしくはグレーで、人間の介在なしにこの世界へ出現したように見えるのを理想としている。 他人の目にはミニマリズムの極北に見えるそれは、長くファッションの炉心で被曝していたことの副作用だ。その結果、彼女が着られるもの、着たいと思うものの種類は、容赦なく切りつめられていった。文字どおりのファッション・アレルギー。(p.15)

ギブスンの小説を読んでいてもっともおもしろいところは、さまざまな設定やらガジェットやらがわちゃわちゃと登場しては、それらがフルスピードで描写されまくっていくことによる、独特のグルーヴ感ではないかとおもうけれど、現代を舞台にした本作でも、そのあたりは十分に味わえる。

20年越しの、歴史上に存在しない「BLACK MA-1」

ちなみに、俺が本書を手に取ったのは、去年実家に帰ったときに、父からバズリクソンズのMA-1を譲ってもらったことがきっかけだった。「ウィリアム・ギブスンの小説に出てくるMA-1を持ってるんだけど、着る?」

2003年のこと、父は新聞で、本作に登場する黒いMA-1(上記引用部でケイスが着ているもの)について、バズリクソンズ――ヴィンテージミリタリーウェアの忠実な復刻で知られる――がブランド10周年記念に限定販売する、という広告を見つけたのだという。歴史上存在しなかったブラック仕様のMA-1(規定色はセージグリーンだった)が、小説から逆輸入する形で現実の製品として生み出される。そんな逸話に妙に惹かれて、おもわず電話をかけて購入してしまった、とのことだった。

父からそんな可愛らしいエピソードが出てきたことが意外だったし――彼は何しろ物欲のない男なのだ、とくにファッションに関しては――父がギブスンを読んでいたということにも少し驚かされた。そういえば昔、やたらとムキムキしたブルゾンを父が着ていたけれど、あれがこれだったのね…と、いまさら答え合わせができた気分である。

実際にモノを見てみると、20年以上前のアイテムということで、ウール製のリブ部分はさすがに多少伸びたり毛玉ができたりはしていた。が、全体的にはぜんぜんきれいだし、ナイロン部分がツヤツヤと輝いていて格好良い。しっかりと作られた服は、20年くらいではぜんぜんボロくならないものなんだな、と感心してしまった。中綿が入っていてやたらと暖かく、風も通さないので、これを着ていればコート要らずという感じである。軽くて頑丈なところも、いかにもミリタリーアイテムらしくて良い。よいお下がりをいただけた。

MA-1に付属していた、父が20年以上保管していたリーフレット。「敢えて宣言しよう。これが本物の「BLACK MA-1」だ。」とぶち上げている

で、本書では、このMA-1がなかなか印象的なアイテムとして登場するわけなのだけれど、ギブスンがやたらと熱量高く書き込んでいる箇所を以下に引用しておく。

ケイスはバズ・リクソンのフライトジャケットを椅子の背に掛けておいたのだが、いまドロテアがそれを見つめているのに気づく。 そのリクソンは、前世紀が生みだした純機能的で伝統的な衣服、空軍のMA-1飛行服の博物館クラスの忠実な複製だ。ドロテアのじわじわした怒りがしだいに加速してきたように、ケイスには思える。MA-1という切り札が、ミニマリズムに向けたドロテアのいかなる努力をも打ち負かしてしまう、と感じたのか。このリクソンは、ファッションとはおよそ縁もゆかりもない情熱につき動かされた、日本人の執念が作りだしたものなのだから。 たとえば、両袖の部分の特徴であるしわのよった縫い目だが、もともとは戦前の工業用機械で縫製した結果だった。ナイロンというつるつるの新素材に、古い機械が反発したのだ。リクソンの製造者たちは、そのしわをわずかに誇張しただけでなく、ほかにもさまざまの小さい細工を凝らしたため、できあがった製品はまさしく日本流儀で、あるひとつの崇拝行為を生み出す結果になった。模倣の対象よりもいっそう本物らしいレプリカ。ケイスの持ち物のなかでは、疑いもなくいちばん高価な衣服だし、代替品を手に入れることはほとんど不可能だろう。(p.18)

「MA-1という切り札が、ミニマリズムに向けたドロテアのいかなる努力をも打ち負かしてしまう」って、そこまで言うかね、という感じもするけれど、このギブスンのパッションこそがバズリクソンズに実際に黒のMA-1を作らせてしまったわけだから侮れない、ということにはなるのだろう。その「模倣の対象よりもいっそう本物らしいレプリカ」に袖を通し、20年以上前のナイロンのツヤ感を眺めていると、ギブスンの興奮もあながち大袈裟ではないのかも…とおもえないこともないのだ。

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『果てしなきスカーレット』

作品概要・所感

デンマークの王女スカーレットは、幼くして父王を失う。叔父のクローディアスが王位を手に入れるため、無実の罪を着せて処刑したのだ。スカーレットは父の復讐を試みるも、逆に毒杯を飲まされてしまう。気づいたとき、彼女は「死者の国」なる世界にいたのだった。父の仇も取れず、何のための人生だったのかと絶望するスカーレットだったが、クローディアスもまた、この「死者の国」にいるらしいと知る。現世では果たせなかった復讐という目的だけを頼りに、彼女は荒廃した世界を歩き始めるのだが…!

ネット上では恐ろしいほどの低評価が横溢し、一方でその逆張りのような絶賛もときおり見受けられる、細田守監督の最新作。そこまで言われるものなのか…?と、逆に興味が湧いて見に行ってきたのだが、自分の率直な感想としては、「想像以上にしっかり楽しめる、誠実な姿勢で作られた、ヤングアダルト(YA)映画」という印象だった。

初期の細田作品(『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』など、奥寺佐渡子が脚本を担当していた頃)が「児童文学」的な特徴を持ったものだったとすれば、『果てしなきスカーレット』はもう少し年齢層を上げた「YA文学」的な手触りの作品だと言っていいだろう。その違いを挙げてみれば、外向きの成長から内面の葛藤へ、共同体の肯定から孤立へ、明るく開かれた空から閉鎖環境での地獄巡りへ…といったところだろうか。

こうした変化が、本作を観た少なからぬ観客にとって、「違和感」として受け取られたというのは確かなことだろう。ただ、それは作品の出来不出来以前のもの、観客が事前に抱いていたイメージや期待感とのズレ、ギャップとでも言うべきものではないか。その「違和感」を単なる「欠陥」として切り捨ててしまう前に、もう少し丁寧に読み解こうとしてみてもよいのではないか?というのが自分の意見である。

では、その「違和感」とは、具体的に作品のどの辺りから生じているのか。以下、やや擁護的なスタンスにはなるが、本作の具体的な表現や構造を見ていきたい。

本作の「違和感」は、本当に「欠陥」なのか?

本作については、さまざまな批判が見受けられる。個人的な観測ではあるが、多くの観客が「違和感」を覚えたと指摘しているのは、とくに以下のような点ではないか。

  • ご都合主義的な「死者の国」という舞台装置
  • 「説明的」すぎる台詞
  • 唐突なミュージカルシーンの挿入
  • 聖というキャラクターの一貫性のなさ

しかし、これらは本当に本作の「欠陥」でしかないのだろうか?以下、それぞれについて考えてみたい。

ご都合主義的な「死者の国」という舞台装置

本作の舞台である、生と死、過去と未来が入り混じる「死者の国」については、その正体や成り立ちが作中で明確に説明されることがない。そのため、この世界そのものが、物語の展開のために都合よく用意された舞台装置に見えてしまう、という面は少なからずあるだろう。

「死者の国」について、一見して考えられる解釈としては、それが「スカーレットの精神世界」であるとか、「時空を超えて生と死が溶け合い混じり合う、あわいのような場所」であるというものだろう。だが、これだけでは、クローディアスがスカーレットより後に死んだはずなのに、なぜすでに世界の王のように振る舞っているのか、という点を十分に説明できない。つまり、こういった解釈では、この世界が「物語にとって都合がよすぎる」印象は拭い切れないのだ。

そこで別の解釈として、「死者の国」を、「スカーレットがどう生き直すのかが問われる、試練の場として設計された世界」だと仮定してみたい。この世界で絶対的な力を持つドラゴンは、裁定者のような存在であるかのように見えるが、このドラゴンが、例えばデンマーク王家の守護神のような存在だったとしたらどうだろう。復讐に取り憑かれているスカーレットが、王たる資質を備えた主体へと変化できるかどうかを見極めるべく、彼女をこの世界へと呼び込んだ、そんな風に考えられないだろうか。

もしそうであれば、クローディアスがこの世界ですでに王のような立場にあり、スカーレットが地を這うような位置から出発するのも、現世での二人の関係性をそのまま誇張したものだと理解することができる。聖の存在も、単なる偶然やご都合主義というより、彼女に欠けていた価値観――復讐とは異なる生のあり方、他者への無条件の肯定――を突きつけるために配置された存在として考えれば納得しやすい。

そのような世界においては、時間の前後関係や因果の厳密さよりも、「いま彼女がどんな問いを抱えているか」こそが優先されるだろう。そのため、ドラゴンはしばしばスカーレットにとって都合のよいタイミングで現れるし、世界そのものも彼女の変化に合わせて姿を変えていくように見える。それは設定の雑さというより、この物語が、世界の整合性よりも一人の主体の変化を中心に据えて構築されていることの表れだということになる。

このように読み直してみれば、「死者の国」は単なる便利な舞台設定として存在しているのではなく、復讐に執着する少女が、自身の生き方そのものを問い直される過程を可視化するための装置として見えてくるのではないか。深読みしすぎのきらいはあるとおもうが、少なくとも、単なるご都合主義として切り捨ててしまう前に、そうした読みの可能性を考えてみる余地はあるだろう。

「説明的」すぎる台詞

次いで、キャラクターの台詞が「説明的」すぎるのではないか?という指摘について。これは、映像や表情で伝えられるはずのことを、わざわざ台詞で説明しすぎているのではないか、という違和感だろう。ただ、これを単なる演出の稚拙さとして片づけてしまう前に、本作がどのような表現形式を採用しているのか、確認しておく必要があるだろう。

本作は『ハムレット』の設定やモチーフを随所に流用しているが、それは同作が示した「問い続ける主人公」という型を借りているからだろう。『ハムレット』といえば、復讐に囚われた主人公が、「生きるべきか死ぬべきか」と苦悩し独白する物語だが、本作のスカーレットも同様に、自らの抱える問いを言葉にして確かめずにはいられない。本作の『ハムレット』的ムードは、登場人物の感情や葛藤をダイレクトに言語化するためのフォーマットとして機能しているようにおもえる。

老婆が世界観を解説したり、聖が人生に関する疑問を語ったり、スカーレットが内面を口に出して葛藤する場面なども、シェイクスピア劇における狂言回しや独白を意識した演出だと考えれば理解しやすい。心理を台詞によって直接提示する、古典的な演劇の作法が持ち込まれているのだ。(もっとも、本作の台詞はすべてがど直球なので、シェイクスピア的な深みや難解さといったものは無縁である。)

スカーレットにとって内面の問いとは、とりあえず棚上げしておけるようなものではなく、いますぐ言葉にして確かめずにはいられない、という切実なものだ。その独白の多くは、整理された思考というより、怒りや悲しみが剥き出しのまま噴出したものに見える。しかし同時に、それは単なる感情の放出には留まらず、意味を探し続ける思考のプロセスそのものとして機能してもいる。彼女は問い続けることで、自分の感情と思考を確かめようとしているのだ。この流れを明確に表現すべく、本作はあえて不自然にさえ見える、演劇的で「説明的」な語りを採っているのではないか。

スカーレットの「説明的」な語りは、観客に、「なぜそこまで言葉で内面を説明するのか?」と違和感を与え得るものではあるが、まさにその違和感、その過剰さこそが、彼女の抱える葛藤の切実さをそのまま示している、ということになるだろう。

唐突なミュージカルシーンの挿入

「唐突な現代の渋谷でのミュージカルシーン」も、その不自然さを指摘される場面だろう。16世紀デンマークから「死者の国」へと続いてきた物語の流れを踏まえると、時代も様式もあまりに飛躍しており、強引に見えるのは間違いない。

ただ、この場面が象徴しているものは明快だろう。復讐という唯一の生き方に固執してきたスカーレットが、はじめて「別の生き方を想像する」その瞬間を、そのまま鮮やかなイメージとして映像化した、というだけだからだ。スカーレットは、「死者の国」を旅していくなかでもなお、別の生き方をおもい描くことなどできないでいる。極限まで追い詰められた内面を抱えた彼女が、自分自身を復讐から解放し、別の選択肢へと向かうためには、この想像上の跳躍――目の前の現実をいったん切断した、時代も場所も様式もまったく異なるイメージへの跳躍――がどうしても必要だったのだ。

物語の転換点となる重要な場面を、中途半端な表現で済ませるのではなく、あえて突き抜けた、観客の記憶に強く残るシーンとして描く。その判断自体は正当なものだとおもうし、本作の観客がこのシーンのことを忘れるということはないだろう。

聖というキャラクターの一貫性のなさ

博愛主義者の看護師、聖。彼は登場時から、誰に対しても分け隔てなく手を差し伸べる、「博愛」の人として描かれる。執拗なまでに「殺すな」と言い続け、暴力を否定する姿勢も一貫している。しかし物語の終盤、彼はその信念を裏切るかのように、スカーレットを守るため自ら手を汚す。これを人物描写の一貫性のなさ、あるいは設定上の矛盾だと感じる観客もいるだろう。

だが、この変化は矛盾というよりも、むしろ最初から彼の内に孕まれていた、「博愛」というものの限界が露わになった瞬間だと考える方が自然だろう。当初、聖は「死者の国」で出会う人すべてを救おうとする。しかし物語が進むにつれ、彼はそのような抽象的な善よりも、スカーレットという具体的な一人の存在を選び取ることになる。

愛とは本来、排他的なものだ。誰かを等しく愛そうとすることはできても、命を賭けて守る対象は、結局のところ一人しか選べない。だから聖の選択は、「博愛」という理念が、現実の関係性のなかでは必ずどこかで歪んできてしまうという、その具体的な現れだと言えるだろう。

ここで重要なのは、彼の死がスカーレットの成長のための犠牲として回収されるのではなく、彼自身が選び取った愛の帰結として描かれている点だ。聖は自覚的に自らの信念から離れ、ひとりを愛することを選び、その結果として命を失う。その選択は、ごく未完成で、だからこそ人間的なものだ。そしてそれは、彼自身の物語として完結してもいる。彼の死は、単にスカーレットの物語に従属した死として意味づけられるだけのものではなくなっているのだ。

このように見ていけば、聖というキャラクターの揺らぎというのは、作品上の「欠陥」ではなく、本作が描こうとする「愛」の切実さの、最も端的な現れだったと言うことができるはずだ。

自分を「赦し」、自分の人生を引き受ける

これまで見てきたような多くの飛躍や揺らぎの先で、「赦す」という課題がはっきりと姿を現してくるだろう。物語後半では、父王がスカーレットに遺した「赦せ」という言葉が重要なモチーフとして繰り返し示されるが、それは単に仇であるクローディアスを「赦す」ことではなく、復讐に囚われ続けてきた自分自身とどう向き合うのか、という問いへと少しずつ意味をずらしていくことになる。自分で自分を「赦す」ことができない限り、復讐は果てしなく続く。復讐に囚われている限り、自由に考え、生きることなどできはしない。物語の最終局面でそのことに気づいたスカーレットは、ついに自分を「赦し」、自分を愛することへの第一歩を踏み出すことになる。

では、スカーレットはどのようにして自分を「赦す」ことができるようになるのか。それは、何か決定的な一つの出来事によってではない。彼女は、「死者の国」でのさまざまな出会いや経験を通して、少しずつ、復讐とは異なる生き方の可能性を見出していくのだ。

スカーレットは、「渋谷でのミュージカルシーン」から、自分のあり得べき姿を見出せたように感じたり、聖の優しさや体温に触れて、いままで知らなかった感情を知ったりする。また、少女の「わたしたちみたいな子供が、死なない世界にする」という言葉にはっとして、それが自分の本当の使命なのかもしれない、と考えたりもする。

そうした瞬間ごとに、愛の意味ってもしかしてこういうこと?人生の意義ってもしかしてこういうこと?と即座におもってしまう、その未成熟さ、信じやすさ、柔らかさこそが、まさにスカーレットというキャラクターの魅力だと言っていいだろう。そしてまた、彼女のそういった考え方が本来的に間違っているということもないはずだ。所詮、自分の人生の意味づけなど、そのように自分自身が腑に落ちたタイミングでえいやと決めつけ、半ば強引に引き受けていくことしかできないものなのだから。

粗さもあるが、誠実さが美しい作品

随分長々と書いてきてしまったが、本作は決して手放しで賞賛できるようなタイプの映画とは言えないだろう。劇中歌の歌詞のダサさ、群衆描写の不自然さ、「良い子ちゃん」や「ボロ雑巾」といった用語チョイスの違和感、エンディングの演説シーンの雑さなど、個人的にも「これは擁護が厳しいかな…」と感じるポイントも少なくはない。ウェルメイドな映画とはまったく言えない、明確に粗さもある、作家性の強い作品だということは間違いない。

しかし、殺伐として屈折した作品たちが強い存在感を放っているこの現代において、登場人物自身に、「何のために人は生きる?人生は何のためにある?」と問いかけさせたり、「最低の世界だからこそ、ほんの少しでも信じられる何かが欲しくてたまらない」と吐露させたりする、そのストレートさ、直球勝負感というのは、俺は好きだなとおもえるものだった。愛、自由、理想、平和…こうした小恥ずかしさを引き受けた上で、なおそれを語ろうとする姿勢そのものが、本作のもっとも誠実で美しい部分ではないかと、そんな風に感じたのだった。

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