
作品概要・所感
デンマークの王女スカーレットは、幼くして父王を失う。叔父のクローディアスが王位を手に入れるため、無実の罪を着せて処刑したのだ。スカーレットは父の復讐を試みるも、逆に毒杯を飲まされてしまう。気づいたとき、彼女は「死者の国」なる世界にいたのだった。父の仇も取れず、何のための人生だったのかと絶望するスカーレットだったが、クローディアスもまた、この「死者の国」にいるらしいと知る。現世では果たせなかった復讐という目的だけを頼りに、彼女は荒廃した世界を歩き始めるのだが…!
ネット上では恐ろしいほどの低評価が横溢し、一方でその逆張りのような絶賛もときおり見受けられる、細田守監督の最新作。そこまで言われるものなのか…?と、逆に興味が湧いて見に行ってきたのだが、自分の率直な感想としては、「想像以上にしっかり楽しめる、誠実な姿勢で作られた、ヤングアダルト(YA)映画」という印象だった。
初期の細田作品(『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』など、奥寺佐渡子が脚本を担当していた頃)が「児童文学」的な特徴を持ったものだったとすれば、『果てしなきスカーレット』はもう少し年齢層を上げた「YA文学」的な手触りの作品だと言っていいだろう。その違いを挙げてみれば、外向きの成長から内面の葛藤へ、共同体の肯定から孤立へ、明るく開かれた空から閉鎖環境での地獄巡りへ…といったところだろうか。
こうした変化が、本作を観た少なからぬ観客にとって、「違和感」として受け取られたというのは確かなことだろう。ただ、それは作品の出来不出来以前のもの、観客が事前に抱いていたイメージや期待感とのズレ、ギャップとでも言うべきものではないか。その「違和感」を単なる「欠陥」として切り捨ててしまう前に、もう少し丁寧に読み解こうとしてみてもよいのではないか?というのが自分の意見である。
では、その「違和感」とは、具体的に作品のどの辺りから生じているのか。以下、やや擁護的なスタンスにはなるが、本作の具体的な表現や構造を見ていきたい。
本作の「違和感」は、本当に「欠陥」なのか?
本作については、さまざまな批判が見受けられる。個人的な観測ではあるが、多くの観客が「違和感」を覚えたと指摘しているのは、とくに以下のような点ではないか。
- ご都合主義的な「死者の国」という舞台装置
- 「説明的」すぎる台詞
- 唐突なミュージカルシーンの挿入
- 聖というキャラクターの一貫性のなさ
しかし、これらは本当に本作の「欠陥」でしかないのだろうか?以下、それぞれについて考えてみたい。
ご都合主義的な「死者の国」という舞台装置
本作の舞台である、生と死、過去と未来が入り混じる「死者の国」については、その正体や成り立ちが作中で明確に説明されることがない。そのため、この世界そのものが、物語の展開のために都合よく用意された舞台装置に見えてしまう、という面は少なからずあるだろう。
「死者の国」について、一見して考えられる解釈としては、それが「スカーレットの精神世界」であるとか、「時空を超えて生と死が溶け合い混じり合う、あわいのような場所」であるというものだろう。だが、これだけでは、クローディアスがスカーレットより後に死んだはずなのに、なぜすでに世界の王のように振る舞っているのか、という点を十分に説明できない。つまり、こういった解釈では、この世界が「物語にとって都合がよすぎる」印象は拭い切れないのだ。
そこで別の解釈として、「死者の国」を、「スカーレットがどう生き直すのかが問われる、試練の場として設計された世界」だと仮定してみたい。この世界で絶対的な力を持つドラゴンは、裁定者のような存在であるかのように見えるが、このドラゴンが、例えばデンマーク王家の守護神のような存在だったとしたらどうだろう。復讐に取り憑かれているスカーレットが、王たる資質を備えた主体へと変化できるかどうかを見極めるべく、彼女をこの世界へと呼び込んだ、そんな風に考えられないだろうか。
もしそうであれば、クローディアスがこの世界ですでに王のような立場にあり、スカーレットが地を這うような位置から出発するのも、現世での二人の関係性をそのまま誇張したものだと理解することができる。聖の存在も、単なる偶然やご都合主義というより、彼女に欠けていた価値観――復讐とは異なる生のあり方、他者への無条件の肯定――を突きつけるために配置された存在として考えれば納得しやすい。
そのような世界においては、時間の前後関係や因果の厳密さよりも、「いま彼女がどんな問いを抱えているか」こそが優先されるだろう。そのため、ドラゴンはしばしばスカーレットにとって都合のよいタイミングで現れるし、世界そのものも彼女の変化に合わせて姿を変えていくように見える。それは設定の雑さというより、この物語が、世界の整合性よりも一人の主体の変化を中心に据えて構築されていることの表れだということになる。
このように読み直してみれば、「死者の国」は単なる便利な舞台設定として存在しているのではなく、復讐に執着する少女が、自身の生き方そのものを問い直される過程を可視化するための装置として見えてくるのではないか。深読みしすぎのきらいはあるとおもうが、少なくとも、単なるご都合主義として切り捨ててしまう前に、そうした読みの可能性を考えてみる余地はあるだろう。
「説明的」すぎる台詞
次いで、キャラクターの台詞が「説明的」すぎるのではないか?という指摘について。これは、映像や表情で伝えられるはずのことを、わざわざ台詞で説明しすぎているのではないか、という違和感だろう。ただ、これを単なる演出の稚拙さとして片づけてしまう前に、本作がどのような表現形式を採用しているのか、確認しておく必要があるだろう。
本作は『ハムレット』の設定やモチーフを随所に流用しているが、それは同作が示した「問い続ける主人公」という型を借りているからだろう。『ハムレット』といえば、復讐に囚われた主人公が、「生きるべきか死ぬべきか」と苦悩し独白する物語だが、本作のスカーレットも同様に、自らの抱える問いを言葉にして確かめずにはいられない。本作の『ハムレット』的ムードは、登場人物の感情や葛藤をダイレクトに言語化するためのフォーマットとして機能しているようにおもえる。
老婆が世界観を解説したり、聖が人生に関する疑問を語ったり、スカーレットが内面を口に出して葛藤する場面なども、シェイクスピア劇における狂言回しや独白を意識した演出だと考えれば理解しやすい。心理を台詞によって直接提示する、古典的な演劇の作法が持ち込まれているのだ。(もっとも、本作の台詞はすべてがど直球なので、シェイクスピア的な深みや難解さといったものは無縁である。)
スカーレットにとって内面の問いとは、とりあえず棚上げしておけるようなものではなく、いますぐ言葉にして確かめずにはいられない、という切実なものだ。その独白の多くは、整理された思考というより、怒りや悲しみが剥き出しのまま噴出したものに見える。しかし同時に、それは単なる感情の放出には留まらず、意味を探し続ける思考のプロセスそのものとして機能してもいる。彼女は問い続けることで、自分の感情と思考を確かめようとしているのだ。この流れを明確に表現すべく、本作はあえて不自然にさえ見える、演劇的で「説明的」な語りを採っているのではないか。
スカーレットの「説明的」な語りは、観客に、「なぜそこまで言葉で内面を説明するのか?」と違和感を与え得るものではあるが、まさにその違和感、その過剰さこそが、彼女の抱える葛藤の切実さをそのまま示している、ということになるだろう。
唐突なミュージカルシーンの挿入
「唐突な現代の渋谷でのミュージカルシーン」も、その不自然さを指摘される場面だろう。16世紀デンマークから「死者の国」へと続いてきた物語の流れを踏まえると、時代も様式もあまりに飛躍しており、強引に見えるのは間違いない。
ただ、この場面が象徴しているものは明快だろう。復讐という唯一の生き方に固執してきたスカーレットが、はじめて「別の生き方を想像する」その瞬間を、そのまま鮮やかなイメージとして映像化した、というだけだからだ。スカーレットは、「死者の国」を旅していくなかでもなお、別の生き方をおもい描くことなどできないでいる。極限まで追い詰められた内面を抱えた彼女が、自分自身を復讐から解放し、別の選択肢へと向かうためには、この想像上の跳躍――目の前の現実をいったん切断した、時代も場所も様式もまったく異なるイメージへの跳躍――がどうしても必要だったのだ。
物語の転換点となる重要な場面を、中途半端な表現で済ませるのではなく、あえて突き抜けた、観客の記憶に強く残るシーンとして描く。その判断自体は正当なものだとおもうし、本作の観客がこのシーンのことを忘れるということはないだろう。
聖というキャラクターの一貫性のなさ
博愛主義者の看護師、聖。彼は登場時から、誰に対しても分け隔てなく手を差し伸べる、「博愛」の人として描かれる。執拗なまでに「殺すな」と言い続け、暴力を否定する姿勢も一貫している。しかし物語の終盤、彼はその信念を裏切るかのように、スカーレットを守るため自ら手を汚す。これを人物描写の一貫性のなさ、あるいは設定上の矛盾だと感じる観客もいるだろう。
だが、この変化は矛盾というよりも、むしろ最初から彼の内に孕まれていた、「博愛」というものの限界が露わになった瞬間だと考える方が自然だろう。当初、聖は「死者の国」で出会う人すべてを救おうとする。しかし物語が進むにつれ、彼はそのような抽象的な善よりも、スカーレットという具体的な一人の存在を選び取ることになる。
愛とは本来、排他的なものだ。誰かを等しく愛そうとすることはできても、命を賭けて守る対象は、結局のところ一人しか選べない。だから聖の選択は、「博愛」という理念が、現実の関係性のなかでは必ずどこかで歪んできてしまうという、その具体的な現れだと言えるだろう。
ここで重要なのは、彼の死がスカーレットの成長のための犠牲として回収されるのではなく、彼自身が選び取った愛の帰結として描かれている点だ。聖は自覚的に自らの信念から離れ、ひとりを愛することを選び、その結果として命を失う。その選択は、ごく未完成で、だからこそ人間的なものだ。そしてそれは、彼自身の物語として完結してもいる。彼の死は、単にスカーレットの物語に従属した死として意味づけられるだけのものではなくなっているのだ。
このように見ていけば、聖というキャラクターの揺らぎというのは、作品上の「欠陥」ではなく、本作が描こうとする「愛」の切実さの、最も端的な現れだったと言うことができるはずだ。
自分を「赦し」、自分の人生を引き受ける
これまで見てきたような多くの飛躍や揺らぎの先で、「赦す」という課題がはっきりと姿を現してくるだろう。物語後半では、父王がスカーレットに遺した「赦せ」という言葉が重要なモチーフとして繰り返し示されるが、それは単に仇であるクローディアスを「赦す」ことではなく、復讐に囚われ続けてきた自分自身とどう向き合うのか、という問いへと少しずつ意味をずらしていくことになる。自分で自分を「赦す」ことができない限り、復讐は果てしなく続く。復讐に囚われている限り、自由に考え、生きることなどできはしない。物語の最終局面でそのことに気づいたスカーレットは、ついに自分を「赦し」、自分を愛することへの第一歩を踏み出すことになる。
では、スカーレットはどのようにして自分を「赦す」ことができるようになるのか。それは、何か決定的な一つの出来事によってではない。彼女は、「死者の国」でのさまざまな出会いや経験を通して、少しずつ、復讐とは異なる生き方の可能性を見出していくのだ。
スカーレットは、「渋谷でのミュージカルシーン」から、自分のあり得べき姿を見出せたように感じたり、聖の優しさや体温に触れて、いままで知らなかった感情を知ったりする。また、少女の「わたしたちみたいな子供が、死なない世界にする」という言葉にはっとして、それが自分の本当の使命なのかもしれない、と考えたりもする。
そうした瞬間ごとに、愛の意味ってもしかしてこういうこと?人生の意義ってもしかしてこういうこと?と即座におもってしまう、その未成熟さ、信じやすさ、柔らかさこそが、まさにスカーレットというキャラクターの魅力だと言っていいだろう。そしてまた、彼女のそういった考え方が本来的に間違っているということもないはずだ。所詮、自分の人生の意味づけなど、そのように自分自身が腑に落ちたタイミングでえいやと決めつけ、半ば強引に引き受けていくことしかできないものなのだから。
粗さもあるが、誠実さが美しい作品
随分長々と書いてきてしまったが、本作は決して手放しで賞賛できるようなタイプの映画とは言えないだろう。劇中歌の歌詞のダサさ、群衆描写の不自然さ、「良い子ちゃん」や「ボロ雑巾」といった用語チョイスの違和感、エンディングの演説シーンの雑さなど、個人的にも「これは擁護が厳しいかな…」と感じるポイントも少なくはない。ウェルメイドな映画とはまったく言えない、明確に粗さもある、作家性の強い作品だということは間違いない。
しかし、殺伐として屈折した作品たちが強い存在感を放っているこの現代において、登場人物自身に、「何のために人は生きる?人生は何のためにある?」と問いかけさせたり、「最低の世界だからこそ、ほんの少しでも信じられる何かが欲しくてたまらない」と吐露させたりする、そのストレートさ、直球勝負感というのは、俺は好きだなとおもえるものだった。愛、自由、理想、平和…こうした小恥ずかしさを引き受けた上で、なおそれを語ろうとする姿勢そのものが、本作のもっとも誠実で美しい部分ではないかと、そんな風に感じたのだった。
www.hayamonogurai.net
www.hayamonogurai.net
www.hayamonogurai.net