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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『トンネル』/ベルンハルト・ケラーマン

作品概要・所感

先日のエントリ(『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』/乗代雄介)で書いたとおり、手塚治虫は本書から『地底国の怪人』の着想を得たと公言していたらしい。巨匠手塚がそこまではっきり推している作品ならばチェックしてみるか!とおもい、早速読んでみることにした。

『トンネル』は、ドイツ人作家ベルンハルト・ケラーマンの1913年作。第一次大戦前に書かれた小説だ。エンタテインメント性たっぷりで、読者を飽きさせることがまったくない、まさしくページターナーという感じの一作である。

アメリカ人建設技師のマック・アランは、自ら発明した「アラニット鋼」なる超硬質の素材を用い、アメリカとヨーロッパを結ぶ海底トンネルを建設するという壮大過ぎるプロジェクトを立ち上げる。この計画には巨大資本が投入され、世界中から投資家や労働者が集結してくる。そうして世紀の大工事が始まるわけだが、工事が進行するにつれ、数々のトラブルが発生する。現場では大落盤が起こり、トンネル内は地獄絵図と化す。やがて人々はマック・アランを敵視するようになり…!

といった具合なのだけれど、大落盤の後の展開もとにかく大盛りで、労働者たちの暴動、ストライキ、財務担当者による資金の使い込み、恐慌、事業閉鎖、破産、火災、裁判、そこからの復活…と目まぐるしい。そのなかで、トンネル事業のプロジェクトは、工事現場そのもの以外にも、投資や雇用、資金運用、メディアを利用した宣伝、労働者たちの街の建設…といった周辺のビジネス、経済活動についてまで濃密な筆致で描かれていく。そうして、資本と労働によって駆動される金融資本主義という巨大なシステムの働きを浮き彫りにしていくのだ。

上述のように物語の展開は壮大ではあるものの、設定はシンプルで、登場人物たちはいずれも類型的である。いかにもエンタメ小説という感じなのだが、それが作品全体にスピード感をもたらすのに貢献してもいる。狂気のように進行していくトンネル工事のように、もうとにかく疾走感に溢れているのだ。

トンネル事業に取り憑かれた男

主人公のマック・アランは、トンネルを完成させるという執念だけをただひたすらに燃やし続ける男であり、物語――アランがトンネル事業に捧げる26年間が描かれる――を通じて成長らしい成長を見せることはない。次々と襲いかかる困難をひとつひとつ乗り越えていこうとするなかで主人公が成長していき、作品の始まりと終わりとで彼がある意味違う人間になっている、というのが物語のひとつの型であるけれど、本作にはそれは当てはまらない。無数に訪れる難局やトラブルを解決するのはアランの努力もあるけれど、それ以上に資本、金の力であり、労働力、民衆の力なのだ。アランの意志力は物語の冒頭から最後まで大きく変化することはなく、世のなか(というのは、つまりは金と労働力である)がそれを受け入れるかどうかによって、ストーリーが動いていく。

そういう意味で、マック・アランは物語の主人公に相応しい、強固な信念を持った人物でありながら、決して典型的な英雄ではない。ただ、トンネルを完成させたい、という野望だけを滾らせ、そのことだけに全精力を注ぎ続ける、極めて単純な男なのである。彼の内には、金儲けや名声といった別の欲望はもはやなく、あるのはただトンネルの完成だけを求める、恐ろしく強烈なエゴだけなのだ。

「私はマック・アランだ、諸君はよく知っている。三千人の人を私が殺したと諸君は叫んで言われる。けれどもそれは嘘だ。運命の方が一箇の人間よりも力強い。三千人を殺したのは、あのトンネルの労働だ。労働は地球上で毎日何百人という人を殺す。労働は戦争だ、戦闘が行われれば死人ができるのは通例だ。諸君も知っていられる通り、紐育だけでも、労働は毎日二十五人の人を殺す。けれども誰一人紐育で労働をやめてしまおうなどとは考えない。海は毎年二千人を殺す。しかも誰一人として海上の労働をやめようなどと思う者はいない。トンネルメン、諸君は友人を失った。それを私はよく承知している。その私も友人をなくした……ちょうど諸君の通りだ。私と諸君とは労働の上の同僚であると共に、また損失の上から言っても同僚なのだ。トンネルメン……」(p.299-300)
「私自身一箇の労働者だ。」とアランは喇叭から叫んだ。「トンネルメン諸君、私は諸君と同様一労働者だ。私は卑怯者は大嫌いだ。卑怯者はどしどし行ってしまえ。けれども勇気のある者は残ってくれ。労働は単に腹いっぱい食うための、ただの手段なんかじゃない。労働は理想だ。労働は現代の宗教だ。」(p.300)

クレイジーな男だとしか言いようがないが、周囲を一切顧みずにただトンネル事業だけにこだわり続けるその姿は、常人には決して放つことのできない、異様な輝きを帯びてもいる。この男を前にして、読者は彼を肯定すべきか否定すべきか、どちらにも割り切ることができないのだ。

トンネル事業に凝縮された資本主義の狂気

もっとも、問題はアラン個人の資質だけにあるのではない。本作では資本や労働といったものの暗部についてもたっぷりと描かれている。というかむしろ、トンネル事業はあらゆるものを吸い込む暗闇のようで、資本主義がこの世界と人々を丸ごと呑み込んでいく狂気をそのまま表しているかのようでもある。

大分の人間には、時と金と勇気がない。人生はこの連中に一顧をも与えない。この連中は地球のまわりを轟々とまわっている調革に捲き込まれて、慄え上がったり息を詰まらせたりすれば、すぐに振り落とされて微塵に砕ける。しかも誰一人としてこれを顧みる者もない。いや他人のことを心配する時間も、金も、勇気も、持ち合わせがないので、同情なぞということは一つの贅沢となったのである。古い文化は破産した。(p.145)
人生は暑苦しく、眼まぐるしい。気違いじみて殺人的だ。空虚で無意義だ。何千人の人間は呆れ返って、人生の希望を放擲している。どうか一つ、新しいメロディが欲しい。古臭い流行歌はもうまっぴらだ。 アランは新しいメロディを民衆に与えた。鉄と、飛び跳ねる電気の火花との歌である。これこそ我らの時代の歌だ、と民衆は膝を打って、頭上を走る轟々たる高架鉄道の音を聞いては、アランの峻厳なタクトを耳にしていると感じた。( p.145)
見ればそのトンネルメンというのは、なるほど坑から出たらしい黄色い顔で、頑丈な手で、背中を曲げて、重たい長靴を引きずって、どしどし行く。恐怖という雰囲気をトンネルから一緒に持ってきた連中だ。この大勢が、みんなあの暗い地下道にいたのだ。トンネルの中では、その友達を死神に取られてしまったのだ。この大勢の行列からは鎖のがらがら言う音が聞える。すべての権利を奪われた悪人や罪人の匂いがする。(p.307)

トンネル工事という世紀のプロジェクトの背景には、無数の人々の生があるわけだが、彼らは否応なしにその巨大な力に巻き込まれていってしまう。そうして資本の歯車の一部となった労働者たちは、自らの存在すら顧みられない過酷な現実に直面させられることになる。鎖に繋がれ、すべての権利を奪われ、「黄色い顔で、頑丈な手で、背中を曲げて、重たい長靴を引きずって、どしどし行く」他ないのだ。

本作は100年以上前に書かれた小説だけれど、ここにはすでに、個人の意志など無視してあらゆる人々を呑み込んでいき、誰にも止めることなど叶わない、そういった資本主義というシステムの恐ろしさが確かに描かれているようにおもう。

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『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』/乗代雄介

作品概要・所感

乗代がデビュー前から15年以上にわたって書き継いできたブログ記事を改稿・整理したという一冊。前半の実験的な掌編群(「創作」)はちょっと乗りにくかったのだけれど、後半のエッセイ(「ワインディング・ノート」)と中編小説(「虫麻呂雑記」)はそれなりに楽しく読むことができた。作者の思考の軌跡をじっくり辿っていく感じの後半パートは、乗代の小説を読んだことがある人ならばきっと興味深く読み進められるだろう。

「全て」外から来たに決まっている

先日読んだ、菅付雅信『インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』には、アウトプットのためには大量のインプットがとにかく必須である、と書かれていたが、本作でもちょうどそんな話が扱われていた。

手塚治虫は、20世紀ドイツの作家、ベルンハルト・ケラーマンの『トンネル』に影響を受けて『地底国の怪人』を描き、かつ、『トンネル』から受けた影響についても包み隠さずに語っていたのだという。乗代は、この手塚の姿勢について、以下のように評価している。

だから、「好きだったな」ではなく詳細に語っているということは「証言」として非常に重要で貴重なわけです。 で、こんなことを言うと、世間には「いやわかってますよ。オレも、ぜんぶ自分で書いたなんて思ってないです。いろんなもの読んで、影響受けて、それでオレが考えて、書いて、この作品になったんです。オレの作品のほとんどは、外から来たようなもんです。手塚先生にも感謝してます。パクツイはカスのやることだ」などと言う輩が大勢いることでしょう。 でも、それがちがうんです。そんなものは「全て」外から来たに決まっているだろうがと僕は言いたいのです。精子だったり卵子だったりしたくせによく言うよ、と。 手塚治虫はシンプルにこう言います。「インプットがないのに、アウトプットは出来ません」全て外から来たのだと言い切れる者だけが、全世界を異郷として自覚するのであり、その「土壌」をぎんみするのであります。 (p.458-459)
表現者としての人間は、雑多な影響をわが身に合成されたキメラであることを避けられません。客観的に眺めてみると、それは引用の塊であるわけで、極論すれば、異常にグロテスクな姿です。
しかし、目をつぶれば、そこには統合された自分というものしかいなくなる。そうやって固定され、やっと信じられるものが「個性」の正体ではないでしょうか。 (p.491)

表現者の自己とは「全て」外部の影響を取り込んで合成したキメラであるが、それを自覚して(目をつぶって)アウトプットし続けていくことでしか「個性」はあり得ない、ということだ。引用部のように、乗代はかなり熱く語っているのだけれど、正直に言えば、この「オリジナリティとは何か」みたいな話は、まあよく聞く話かなという感じはする。古典的な問いだと言ってもいい。

たとえば、Austin Kleonが"Steal Like an Artist"で書いていたように、“Nothing is completely original”であるのだし、そもそも社会的な動物たる人間は、言語を他人から学習して用いるようになるのだから、「「全て」外から来たに決まっている」のだ。もっとも、乗代の文章は、その古典的な問いに対して、挑発的に、かつ、自身の創作経験に裏打ちされた「証言」として、その主張を打ち出しているところが魅力的だということはできるだろう。

自分だけのものなど、そもそもの始めからない。だからこそ、大量の、雑多な、異様にグロテスクな姿になるほどの、インプットが求められる。そしてそれは、インプットを消化する継続的なアウトプットと表裏一体のものでもあるだろう。本書のような、膨大な創作の蓄積を見ていると――本書は600ページ超の鈍器本であって、まさに長年にわたるインプットの影響とアウトプットの軌跡を隠さずに示した記録だと言える――そんなことを改めて考えさせられたりもしたのだった。

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『0円で生きる 小さくても豊かな経済の作り方』/鶴見済

作品概要・所感

もともと人類は、お金に頼らず問題を解決するさまざまな手段を持っていた。しかし、資本主義が行くところまで行き着いた感のある現代では、お金を払うことで問題解決することが当たり前になっている。お金への依存度が極めて高い社会においては、労働と消費とをただただ繰り返すだけの毎日になりがちだし、お金をたくさん持っている人/お金をたくさん稼げる人が偉い、といった価値観が支配的になる。こうした状況にうんざりし、「お金への依存度」を下げていきたい、と考えるようになってきた人も多いだろう(もちろん、こんな本を読んでいる俺自身もその一人である)。

本書は、お金を使わず「0円」でできることってこんなことがあるよね、ということを改めて整理し直し、提示している一冊。鶴見の前作『脱資本主義宣言』の実践編、として位置づけられているとのことだ。

資本主義社会という、お金がすべての社会になったのは、ほんの数百年前のこと。それまでの人類史のほとんどの期間、人は必要なものを分け合ったり、あげたり、力を合わせたりしながら生きてきたのだ。はるか遠い昔のことではないのだから、取り戻せないはずがない。(p.3)

How To本でもあり、生き方に関する思想を語っている本でもある。というか、この両者は絡み合っているので、どちらかだけを抜き出して語ろうとすると片手落ち感が出てきてしまうものなのかもしれない。とはいえ、全体的にヘヴィなところはまったくなく、ごく軽いコラム、エッセイという感じで読めるようになっている。無料のやり取り、共有、拾う/貰う、助け合い、公共サービスの利用など、お金を使わないさまざまな手段が、鶴見の経験に即して語られていく。

この手の本は結構いろいろと読んできてしまっているので、個人的にはあまり新鮮味はなかったのだけれど、思想的には納得できる部分も多い一冊だった。あと、路上生活者がどこでどうやって廃棄食料をゲットしているか、についてのインタビューに基づいた詳細な記述があったりして、さすが鶴見…!とおもわされたりもした。

お金への依存度が高すぎる社会

もともとお金をつかわない社会では、お金を持っていないことは何の問題にもならない。例えば、伝統的な社会の人々がお金をあまり使わないことを、一概に貧しくてかわいそうと見なすことはできない。けれどもお金への依存度が高い社会になるほど、それを持っていないことは致命的になる。そして日本の社会は、この依存度が極めて高い社会だ。(p.6)

本当に、いまのこの世の中、大量生産・大量消費のグローバル資本主義社会というのは、うっかりしていると、使わなくていいお金までどんどん使ってしまう仕組みになっている。消費の欲望を駆り立てる広告は視界のあらゆるところに入ってくるし、必要ではないけれど便利になるものだとか、時短になるものだとか、射幸心や虚栄心を満たすものだとか、中毒性のあるものだとか、そういったお金を稼ぐことが目的のモノ――要するに、商品――で満ち満ちているのだ。

社会全体がお金をどんどん使うように仕向けてくるので、ぼうっと生きていると、せっかく労働で手に入れた資産をいとも簡単に消費によって失ってしまう。失ったら、またお金を稼ぐために労働しなくてはならなくなる。労働で稼いでは、消費で失う。この流れを繰り返し続けることで、多くの人の一生が終わっていくわけだ。

また、そんな風に大量に消費がなされている一方で、本当にモノが必要な人のところにはそれが届けられなかったりもする。本書にも、「現在世界で捨てている食べ物は、すべての食料生産の三分の一にものぼってしまう。先進国ではさらにその割合は高く、食料生産の半分を占めるとまで言われているのだから、にわかには信じがたい」(p.92)などと書かれているが、まったくうんざりする話だとしか言いようがない。

もっとも、本書の「あとがき」に、「お金を使うことは、人間関係の省略」と書いてあるとおり、人間関係が濃密になり過ぎることによる煩わしさやデメリットを解消するためにお金が役に立つ、という側面はやはりあるだろう。人間が社会的な動物で、社会の中で群れとして生きていく以上、そこにそれなりの問題が発生してくるのは自然なことであって、その緩和にお金が一役買う、というのは理解できる。まあこのあたりは、0か100かで考えるという話でもない、ということなのだろう。完全な「0円」を目指すのではなく、お金との間合いを測り、自分にとってちょうどよい「小さくても豊かな」経済の形を探し続けることが、この社会で現状可能な抵抗の形、ということであるのかもしれない。

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『写真講義』/ルイジ・ギッリ

作品概要・所感

イタリアの写真家、ルイジ・ギッリが1989年から90年にかけて大学で行った講義をまとめた一冊。全13回の講義は、ポジとネガの違いといった写真技術のごく基本的なところから、写真とはそもそもいったい何で、現代人はイメージと、そして世界とどのように向き合っていくべきか、といった内容にまで広がっていく。最終章では、レコードジャケットと写真との関係についてもかなり詳しく論じられている。(ギッリは幅広いジャンルのレコードジャケットの撮影を手がけていたのだという。)

現実とイメージの均衡点を探る

ギッリの写真といえば、日常的で地味な被写体、パステルトーンの柔らかな色彩、整然としてミニマルな構図、ボケを廃した平面性、といったところが特徴だろうか。こうした構成の美しさから、彼の写真は「絵画的」と形容されることも多いけれど、だからといって、彼の写真が「カメラを使った絵画」だというわけではないだろう。

本書でギッリは、フレーミングという行為を通じて、現実に類似する別の空間、別のイメージを作り出すことについて語っている。それは、現実をありのままに写すというわけでもなければ、絵画的なイメージを恣意的に生み出すというわけでもない。そのどちらとも異なる、現実とイメージ、外界と内界とのあわいにある「均衡点」を探り出し、そこに光を当てることを、彼は重視しているのだという。

それは、世界と関わる一つの方法として、写真について考えるということです。そこには撮影者のしるし、つまりその人個人の物語やその人の存在物との関係が色濃く反映されます。しかし錬金術にも似た繊細な作業を通じて、私たちの内面ーー私の写真家・人間としての内面ーーと私たちの外で生き、私たちがいなくとも存在し、撮影した後も存在し続ける外的な存在物との均衡点を捜し当てる方向に向かわねばなりません。(p.18)
写真とはものごとを明らかにする、ものごとに光りを当てて見えるようにする表現だと私は確信しています。写真の本質は光で書くことですから、その基本は光とともに仕事をすること、光について繊細な感性を働かせることです。(p.182)
現実の中にどのように神秘の場所があるか、測り知れない場所があるかを見せる方が私はいいと思いますし、そうした場所は写真イメージの面白味も決定づけるのではないかと考えています。(p.185)

ギッリにとって写真とは、いわば光を通じて世界を問い直す行為だというわけだ。だから彼の作品には、メタ的な仕掛け(絵画やポスターなど、すでに作成されたイメージをさらにイメージとして撮ったもの)や、コラージュのように見えるもの(しかし実際にはコラージュではなく、現実の場所を撮影したもの)が多く含まれているのだろう。それらこそが、彼が言うところの、現実の中の「神秘の場所」、「計り知れない場所」なのだ。一見、人工的な構成に見えるそれらの写真が、実は現実そのものを撮影したものであるという事実が、見る者の認識にズレを生じさせ、新しい視点を与えることに繋がっている。

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ちなみに、俺がギッリの写真を初めて意識して見たのは、たぶん須賀敦子全集の表紙に使われた「モランディのアトリエ」の写真だったとおもう。独特な余韻を感じさせる静謐なムードが良いし、何より本の雰囲気とめちゃくちゃ合っているな、くらいのことはおもっていたのだけれど、その作品が生まれる背景にはこういった彼の写真観があったというわけだ。

『インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』菅付雅信

作品概要・所感

クリエイティブ系の自己啓発書。菅付の主張はシンプルで、「質の高いアウトプットを行うためには、質の高いインプットを大量に継続する(=ルーティン化する)必要がある」と言っているだけである。そして、その証拠として、「天才」の誰々は…と、有名なエピソードが列挙されていく形式になっている。

本、映画、音楽、アート、食、について取り上げられているのだが、どのジャンルについても清々しいくらいに新規性の感じられない内容しか書かれておらず、全体的に退屈だった。各ジャンルについて、おすすめコンテンツのリスト(ベスト100)が掲載されているものの、いずれもベタな古典ばかりというか、「どこかで見たようなリスト」としか言いようがなく、正直、こんなのをドヤ顔で出されてもな…とおもってしまった。著者なりの審美眼や独自性といったものがほとんど感じられなかったのだ。

でも、自分は習慣化できてんのか?って話

とはいえ、菅付の主張している内容――「大量・高精度・高負荷なインプットを行い続ける習慣こそが、アウトプットの土台になる」、「ザッピング的なインプットなどはまったくの無意味である」、「世の中にありふれた「いいもの」ではなく、「すごいもの」を見極めて、「すごいもの」をこそインプットせよ」、「アウトプットの質は、ネタのストック量とその掛け合わせの試行回数によって決まってくるのだから、ストック量がなければ話にならない」――それ自体には、いずれもまったく異存はなかったのだった。というか、菅付の言っていることはド正論だろう。

そういう意味では、本書は、ついついインプットをサボりがちな自分に活を入れてくれるような一冊でもあった、と言ってもいいのかもしれない。実際、彼が言うところの「ハードなインプット」など、まるでできていないのがいまの自分なのだ――まさにそれこそが本来やりたいことであるはずなのに。(だからこそ、本書のような内容の薄い本を読んでしまっている…!)